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金澤の御能⑦8代重煕公・9代重靖公
【金沢・江戸】
7代宗辰公(むねとき)の歿後、6代吉徳公の2男重煕公(しげひろ)が跡を継ぎ8代藩主になり、入国能が寛延元年(1748)2月11日・15日・18日・21日・23日・27日の6日間にわたり行われました。初日は、風流(神事・祈祷曲)、最初の謡だしの開口、要脚広蓋の儀式は先例通りに行われ、「政隣記」によると、初日は、家督入国の祝儀に兼ねて、昨年12月に将軍より拝領した鶴の披露が行われ、27日は、藩祖150回忌の法要がすんだので、寺方の招請をあわせて、能興行し、百姓町人の白洲での拝見もすべて先例に従ったとあります。
風流:能の神事・祈祷曲で「翁」(「式三番」)の特殊演式。開口:能で1曲の最初の謡いだしの部分(他、前回6代吉徳公参照)
(政隣記:天文7年(1538)から安永7年(1778)まで加賀藩政を編年体でまとめた重要史書で、編者は津田政隣。前田重教公・治脩公・斉広公の3世に仕へ町奉行や馬廻組、宗門奉行などを務めた人で、読書を好み文才に富み、諸家の記録をさがし求め、天文7年以降240年間の事蹟を「政隣記11卷」に著し、また、安永8年(1779)政鄰24歳の時から文化11年(1814)の36年間。自ら見聞したものを「耳目甄録(じもくけんろく)20卷」を著します。耳目甄録も通称「政隣記」と称します。編者津田政隣は文化11年(1814)59歳で歿す。現在、金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵の津田政隣著「政隣記」全31巻を底本に、富山の桂書房より髙木喜美子氏の校訂・編集で全翻刻を随時続刊されています。)
重煕公の入国能見物の総数と費用は、初日216人(2月11日)、2日目412人(15日)、3日目560人(18日)、4日目388人(21日)5日目361人(23日)6日目366人(27日)、合計2,303人。白洲見物の町人百姓の数は、町奉行支配の町民が毎日425人から22人。郡奉行支配の百姓が、毎日180人から人。合計3,639人。費用は、大概500貫目(約8,350万円)その内、京・江戸御役者の拝借が、併せて100貫目が含まれている。とあります。
短命の重煕公は、その後、御能は、宝暦2年(1752)3月11日、婚約者の父君高松藩主松平讃岐守頼泰が、本郷の上屋敷を訪れて饗を受けたとき、宝生太夫らが詰めていて、「立田」「江口」「融(とおる)」の能三番を終えてから、能の番数を少なくして一調一管、仕舞などが多くなったと記録されています。その頃、その様な形式が流行っていたという。
翌宝暦3年(1753)4月、重煕公は25歳で歿します。そのあとを継いだ9代重靖公(しげのぶ)は、同年宝暦3年(1753)9月29日に、19歳で逝き半年間の藩主となり、藩はこのころ不幸が続いています。
(前田重煕公と重靖公:加賀藩8代主。第6代藩主前田吉徳公の次男。母は側室の民(心鏡院)。幼名は亀次郎、婚約者に高松藩主松平讃岐守頼泰の娘長姫。吉徳公の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち2番目の藩主で、宝暦3年(1753)4月8日、25歳で歿します。その跡、異母弟の吉徳公の5男重靖公が継ぎ、その年宝暦3年(1753)7月28日、藩主として初めて帰国の許可を幕府より得て、8月16日出立するが、道中で麻疹を患い、金沢に到着するものの、9月29日に19歳で病死。同年10月5日に加賀藩は重靖公の死亡が公表され、家督は異母弟の重教公が継ぎました。)
≪御能と狂言の歴史❸江戸時代(庶民)≫
能が幕府の式楽になり、江戸初期には京都・大阪では裕福な商人が熱心に稽古をしていますが、江戸では庶民が能を観ることができたのは幕府の許可を得て各座の大夫が催す「勧進能」で、将軍家のお祝いのときに江戸城内に一部の町人を招く「町入能」くらいしかありませんでした。
能文化は庶民に広がり「謡(うたい)」
能が幕府の式楽になると一般民衆が能と接する機会が少なくなっていきました。しかし、能の世界が庶民から完全に離れていってしまったわけではなく、庶民には、能の詞章(詩歌の文章)だけをうたい楽しむ「謡(うたい)」が広く愛好されています。能の詞章(詩歌の文章)は寺子屋の教材として用いられ、多くの文芸作品に引用されていたのは、江戸時代は出版技術が著しく向上し書物が多く発行され、「謡」は江戸庶民の必須の教養で、「謡」のテキストである「謡本」は、江戸時代を通じ多くの種類が出版され、江戸時代の大ベストセラーだったそうです。
幕末の金沢では、庶民が書いた梅田日記に、「謡」の稽古の様子が書かれています。要約すると、慶応元年(1865)閏5月晦日から12月15日の半年間、材木町入口の町人木村屋吉三郎、能とや喜太郎、嶋屋源太郎3人と並木町の越中屋太三郎が、師匠である能登屋甚三郎(梅田甚三久)の口移しで“鶴亀”“猩々”“関原与市”“皇帝”“忠信”“飛雲”“吉野静”を習い、100日以上の稽古が終わる12月15日の稽古仕舞に、師匠や先輩等10人が集まり謡いの会が催れ、その後、午後7時から10時頃まで、みんなで“ふきたち”や“味噌漬タラの焼き物”“このわた”などを肴に一盃やったと書かれています。 |
(金沢の御手役者と町役者:藩政期の金沢では寺子屋でも小謠を課目の一つで、規式能・神事能のほか、陰暦11月には諸橋・波吉の兩大夫の興行能があり。御能発祥の地奈良・京都、及び諸流家元の集まる江戸を除けば、金沢以外、全国にこれと肩を並べるところが無く盛況であったが、ただ幕末に至り国事多端となり、前田斉泰公は文久2年(1862)4月の演能を最後とし、明治元年(1868)11月に至るまで御能を廃しました。なお、寺中の神事能は恒例を変えることはなく今に続いています。記録によると幕末まで藩から禄を得ていた御手役者約40人及び町役者約80人います。)
つづく
参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・「松雲公御夜話」等
金澤の御能⑥6代吉徳公・7代宗辰公
【金沢・江戸】
6代藩主吉徳公の初入国は、享保10年(1725)7月11日辰の刻(午前8時)本郷を出発し、22日の午前に金沢城に入ります。9月28日、10月朔日、10月4日、10月6日、10月15日、10月21日の6日間に、入国規式能が行われています。入国能は、前回も触れましたが、藩主の一世一代の盛儀で、一つには藩主の威光を領民に示すもので、白洲に町人を集められ、その数、町方は毎日360人、6日間で2,600人。郡方は毎日110人前後、6日間で766人。合計3,366人であったと伝えられています。
(金沢の享保10年ころの御手役者と町役者:「加賀の能楽」の中に「享保十乙巳年御入国以後御祝御能被仰付候時分相勤候江戸京都御当地御役者且 御敷細工方人々覚」という長ったらしい表題の覚書が載っていす。江戸・京・金沢の御役者の氏名と禄、役目、年齢、流派などを書いた覚え書きで、吉徳公の入国規式能の様子を知る上で貴重なものと思い人数だけですが以下に記します。江戸御役者(太夫)宝生斎宮23歳(10人扶持)以下諸役含め11人・京都御役者(脇)春藤甚右衛門36歳(判金5枚)以下諸役含め14人(無息人6人)・金沢の御手役者及び町役者(太夫)諸橋権之助、波吉右門以下役者13人、笛4人、小鼓4人、大鼓8人、太鼓4人、狂言13人、地謡24人、作物師1人、物著4人合計118人。(細工所7人この他12人とあります。)
6代吉徳公(幼名勝次郎)の能の稽古始めは、元禄11年(1698)4月18日、9歳の時でした。父綱紀公から宝生嘉内へ白銀5枚、勝次郎君(吉徳公)から袷(着物)2枚、御徒上原吟丞へは白銀3枚お国染め2端が贈られ諸橋陸丞へも同じものが贈られています。この3人が勝次郎君(吉徳公)の能の教育に当たったもの思われます。翌年12月26日に綱紀公から勝次郎君に初めて料理が進上され、それを聞いた将軍の生母桂昌院から盃台と押物が贈られ、父子の盃事があり、役者中が「四海波(しかいなみ「高砂」の一節)」を謡い、能が三番の内、勝次郎君が「猩々(しょうじょう)」を舞っています。
(吉徳公は、歴代の藩主や大名が好むシテ方ではなく、何故か小鼓を好み、しかも上手で、側近の寵臣を舞わせ、自ら小鼓を打ったという。この風潮が他の重臣以下の間に広がっていたそうです。)
吉徳公と能にまつわる逸話
「護国公年譜」によると、享保11年(1726)2月15日、前年の12月将軍吉宗より贈られた“鶴”の披露があり、御能が始まる前に家臣に二汁五菜の料理が出され“鶴”が本汁であつたとあり、同年譜には、太夫の諸橋権進が三構(今の芳斉2丁目)に屋敷を拝領し、10月29にから4日間にわたり能を張行(興行)し、諸組頭支配人から家来の末々まで押しかけ、お上より遠慮のお触れがでたとあり、また、11月より13歳から御居間坊主として吉徳公に仕えた大槻伝蔵が23歳で、太夫諸橋権進について仕舞の稽古をはじめたとあり、その他の御居間方の者も、お次の間で乱舞の稽古をするよう云い付けられたとあります。
(護国公年譜:享保8年~同20年の前田吉徳公の年譜に、御部屋住年表として元禄3年(1690)吉徳誕生より享保8年(1723)家督相続までの記録が1冊付録になっているもの。)
拙ブログ
嫉み、妬みから極悪人にされた男➀~⑩
宗辰公(幼名勝丸)の御能初め
享保19年(1734)3月10日に、吉徳公は昨年11月に誕生した総姫(なみひめ)の生誕の祝を含めた御能を催します。この日は、今までになく、まだお目見えも済んでいない近習頭や平士の子供にも能見物をさせ本格的な祝儀能ではないが、翁立であり、15歳の奥村数馬に、御能初めての大役を仰せ付けられ、去年の暮に京都から来ていた4代目(正月に先代の残知300石を引継ぐ)も竹田権兵衛も17歳。「翁」や「乱」「道成寺」などの曲は藩主の御前で演じてからでないと外で演じられないというので、囃子方も京都から呼び寄せています。翌4月25日、28日のお慰能では、勝丸君(後の7代宗辰公)が初めて舞い、吉徳公は得意の小鼓を打ち、近習の人々にも、シテ役や囃子方をさせ、お城付頭分の拝見は勝手次第と仰せ出されています。
(大槻排斥の急先鋒で儒学者青地礼幹の「浚新秘策」によると、その頃、藩は厳しい財政悪化で家中の窮乏のため、享保19年(1734)12月20日頃、年寄衆が隠密に算用場奉行を招き寄せ、銀才覚のため、十村役や町年寄を京阪に遣わしますが、これは家老には秘密だとあります。また、吉徳公は、この年の帰国後、御能や放鷹はやめるよう言い出したとあり、享保の末から延享へかけて、華やかな御能の催しがないのは、銀不足のせいであろう。延享2年(1745)6月12日、吉徳公は金沢城で歿します。享年56歳。さらに延享3年(1746)3月5日、5ヶ年計画で倹約令が出されます。)
そんな折、7代宗辰公は御能好が高じ嵌ったのか、それとも前例に従ったのか、家督相続の祝賀能に老中を招き延享3年(1746)8月26日に、10月25日には9代家重の将軍宣下と家督相続の祝いをかねて、一門の人々招き六番の能を催し、自ら「嵐山」「松山鏡」の2番を演じていますが、この年の12月12日に、22歳の若さで歿しました。
≪御能と狂言の歴史❷江戸時代(武家)≫
江戸時代、今の能楽の原型が作られました。「喜多流」が加わり組織面だけでなく、芸の内容も徐々に今の形に近づいていきます。能・狂言が、江戸時代にも生き続けたのは、儀式に用いる「式楽」として江戸幕府の保護を受けたことにあり、多くの能役者は幕府の正式な儀式や将軍・諸大名たちの私的催しに出演し、幕府・藩から給与を受けています。また、生活や芸事に対する厳格な監視を受け、さらに、将軍や大名などが自ら演じる娯楽であったのも能の大きな特色で、能役者は将軍や大名などの師範も務めています。このように権力者と密接な関係があったため、常に将軍の好みや政治状況の影響を強く受けていますが、幕府の儀式を彩りに華を添えています。
(5代将軍綱吉)
幕府の式楽:江戸時代の能は幕府の儀式に用いる「式楽」でした。江戸城本丸(将軍の住まい)と西丸(世継ぎの住まい)には幕府公式の催しに用いられる「表舞台」があり、将軍の代替わり・婚礼・出産といったお祝い事、先祖の忌日や家康を祀った日光東照宮参詣などの諸行事、貴賓の接待など公式の宴席には必ず能が開催され、幕府の重要な行事のほとんどに能が関わっていたのです。また室町期から正月におこなわれていた「謡初(うたいぞめ)」のように、能自体が幕府の欠かせない行事となっている場合もあり、江戸時代の能は様々な幕府式典を華やかに彩っていました。
(綱吉は玄人の能の演じ方にもたびたび口を挟みます。本来のしきたりにならって、綱吉の命令に背いた役者が追放されることもあり、江戸時代に成立した喜多流は、大夫とその息子が一時追放されてしまい、流派存続の危機にさらされたほどです。また、綱吉は、当時上演が途絶えてしまった珍しい曲を観ることを好まれ、将軍の好みにあわせ普段めったに演じない曲や伝承が途絶えた珍曲を復活させなければならないので能役者たちは苦労したと云います。)
6代将軍家宣の時代にもそれは継承され、特に珍曲好みはいっそう拍車がかかり、綱吉時代以上の数の曲が復活上演されています。この時代に大きな権力を持った側用人間部詮房は、家宣周辺の御能の催しを通して頭角を現した人物だと云われています。しかし、状況は一時的なもので享保の改革で知られる8代将軍吉宗の時代には、御能の催しも縮小され、後代の規範を作っていきます。
(綱吉・家宣時代には、珍曲が復活される中で、「大原御幸」「砧」「弱法師」といった名作と云われる曲が発掘され、能の演目を豊かにしたという功績は大きく、将軍たちの熱狂と冷静な眼差しが、能を今日の姿へと育てています。)
参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・「松雲公御夜話」等
金澤の御能⑤綱紀公と宝生流
【金沢・江戸】
寛文元年(1661)7月、5代藩主前田綱紀公が満13歳の初入国に際し、金春流の竹田権兵衛が入国能を勤めています。白洲の町人たちにも赤飯を賜り盛大であったという。以後、お殿様の入国能が前例となります。元々は加賀藩では金春流でしたが、綱紀公の頃、将軍綱吉が特に宝生流をひいきにしていたので、綱紀公は国元の諸橋、波吉らの能役者を宝生流に転向させ、綱紀公自身も宝生流に弟子入りし能を舞うようになります。後に加賀宝生と呼ばれるほど、金沢では宝生流が盛んになり、綱紀公は、町人の御手役者たちに名字を許します。
さらに、加賀藩には御細工所の職人に工房の仕事とは別に、綱紀公の能のお相手を目的に能の稽古を奨励します。これを「本役兼芸」といい、御細工所の職人たちは地謡や囃子方、ワキツレなどを務め、参勤交代で綱紀公が江戸へ出府の時も同行し、江戸在住の能役者に弟子入りするものもいたという。職人の中には、能の舞台装置の作り物を作る者や、針仕事を本業とする者が役者に能装束を着付ける役を担当し、本業の技術を生かしながら裏方として能に携わる者もいました。綱紀公はプロの能役者や町の兼業役者だけでなく、家臣たちに御能の相手を命じ、稽古を奨励したので能の催しや稽古が盛んだったという。
(石川県史(第二編)によると、加賀に於ける兩大夫(諸橋・波𠮷)以下、いわゆる御手役者と称する者は、皆、町会所の支配に属し、もつぱら、御能立方の技芸を研修する職とするが、綱紀公は、なおその外に余技としてこれに練達するものを保護奨励します。すなわち藩の制に細工所というものあり、細工奉行・細工小頭・細工者等之に属し、刀剣の鍛冶研磨・蒔絵・髹漆・裝束・武具以下諸種の工芸を掌らしめしが、綱紀公は彼等の中に御能のシテ方を除く各部門を兼芸とする者を置き、これに加俸を与えています。・・・・云々とあります。)(文体も直し漢字も新字体にしました。)
(5代綱紀公)
拙ブログ
“綱紀公と文化政策”御細工所➁
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11587451645.html
密田良二氏の「金沢の金春」には、貞享3年(1686)に松雲公綱紀公が宝生流を学んで以来、加賀宝生の名が天下の喧伝されるようになりましたが、藩祖利家公以来伝統の金春に対する庇護もなおざりにされていなかったと云う。幕末における加賀藩御手役者の中に、京都在住の金春役者の名が数多く見えます。
シテ方 竹田権兵衛 (金春流) 300石 ツレ方 武部常次郎 (金春流) 判金2枚 地謡方 松田熊二郎 (金春流) 判金2枚 後見方 加藤子勘蔵 (金春流) 判金3枚 等 |
5代将軍綱吉と御能
江戸時代の御能は将軍の好みに左右されることが多く5代将軍綱吉は、将軍就任以前からも能に異常なほど耽溺しています。自ら舞うだけでなく家臣や諸大名などにも能を舞うことを強要し、さらに自分の能の相手をさせるために多くの能役者を武士の身分に取り立て江戸城内に仕えさせます。また、前出の綱吉が特に宝生流をひいきしていたため、暗に強制で加賀藩前田家に宝生流に転向させるなど、当時の能の世界にも大きな影響を及ぼしています。
(綱吉は玄人の能の演じ方にもたびたび口を挟んでいます。本来のしきたりにならって、綱吉の命令に背いた役者が追放されることもあり、江戸時代に成立した喜多流は、大夫とその息子が一時追放されてしまい、流派存続の危機にさらされたほどでした。また、綱吉は、当時上演が途絶えてしまった珍しい曲を観ることを好み、将軍の好みにあわせ普段めったに演じない曲や伝承が途絶えた珍曲を復活させなければならないので能役者たちは苦労したと云います。)
「猿楽役者士列に入るの始也」 能役者から武士へ・・・
(因みに、猿楽は、「申楽」とも書いています。申は干支では「サル」と読み、“楽しみを申す”から申楽ともいい、また、神楽の「シメスヘン」を取ったのだとか云われています。)
猿楽と能楽:江戸時代は「猿楽」が正式名称で、明治初年(1668)に「能楽社」という団体が作られてからの名称です。能楽社は、その時の後援者(華族・新興財閥など)で作られた団体で、その団体が建てたのが現在靖国神社に残る「能楽堂」です。(創建は今の東京タワー辺り)江戸幕府に「猿楽の制」という規制があり、猿楽を英訳にすると「モンキープレイ」では諸外国に紹介出来ないということから、旧のお公家さんが考え、旧13代加賀藩主 (金沢藩主)前田斉泰侯爵が賛同したものです。
(俗に前田侯爵の命名と言われていますが、前田侯爵は賛同して、今も靖国神社に残る能舞台に「能楽」と揮毫し掲額したものです。)
加賀藩藩主の入国能
加賀藩では、“規式能”という藩主が家督相続と初入国を祝って“能”を催す先例があり、4代光高公から1日ないし2日で行われていましたが、5代藩主前田綱紀公の時は、城内の白洲の招いた町人にも赤飯を賜り、6代吉徳公の時から作法が整備され6日間にわたり挙行されています。7代宗辰公・9代重靖公の時も早世で行われず、文化年間の“規式能”は8代重煕公以来、延享5年(1784)から数えて60数年ぶりで挙行され、能好きの10代重教公の時は就任早々に宝暦の銀札騒動や3年後の宝暦に大火のため祝うような雰囲気でなく財政的にも余裕がなく、11代治脩公の時も財政難で実施されなかったが、12代斉広公は、二の丸御殿の落成を祝う意味を込めて挙行されたものと思われます。最も12代斉広公が無類の能好きだっことも有るかも知れませんが、御殿の完成祝いは、金沢城下は2日の休みを令し、「盆正月」の祭りが行なわれ、6回にわたる“規式能”では、造営に尽力した年寄以下藩士が観覧し、職人や町人など数千人を御白州で見物させ、“慰み能”では6,000人を招き、いずれも落成した二ノ丸御殿の能舞台で催され、後に斉広公治世における最大のイベントだったと伝えられています。 |
つづく
参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・「松雲公御夜話」等