金澤の御能⑥6代吉徳公・7代宗辰公 | 市民が見つける金沢再発見

金澤の御能⑥6代吉徳公・7代宗辰公

【金沢・江戸】

6代藩主吉徳公初入国は、享保10年(1725)7月11日辰の刻(午前8時)本郷を出発し、22日の午前に金沢城に入ります。9月28日、10月朔日、10月4日、10月6日、10月15日、10月21日の6日間に、入国規式能が行われています。入国能は、前回も触れましたが、藩主の一世一代の盛儀で、一つには藩主威光領民に示すもので、白洲町人を集められ、その数、町方は毎日360人6日間2,600人。郡方は毎日110人前後、6日間766人。合計3,366人であったと伝えられています。

 

金沢の享保10年ころの御手役者と町役者:「加賀の能楽」の中に「享保十乙巳年御入国以後御祝御能被仰付候時分相勤候江戸京都御当地御役者且 御敷細工方人々覚」という長ったらしい表題の覚書が載っていす。江戸・京・金沢の御役者の氏名と禄、役目、年齢、流派などを書いた覚え書きで、吉徳公入国規式能の様子を知る上で貴重なものと思い人数だけですが以下に記します。江戸御役者(太夫)宝生斎宮23歳(10人扶持)以下諸役含め11人京都御役者(脇)春藤甚右衛門36歳(判金5枚)以下諸役含め14人(無息人6人)・金沢の御手役者及び町役者(太夫)諸橋権之助、波吉右門以下役者13人、笛4人、小鼓4人、大鼓8人、太鼓4人、狂言13人、地謡24人、作物師1人、物著4人合計118人。(細工所7人この他12人とあります。)

 

 

6代吉徳公(幼名勝次郎能の稽古始めは、元禄11年(1698)4月18日、9歳の時でした。父綱紀公から宝生嘉内へ白銀5枚、勝次郎君(吉徳公)から袷(着物)2枚、御徒上原吟丞へは白銀3枚お国染め2端が贈られ諸橋陸丞へも同じものが贈られています。この3人が勝次郎君(吉徳公)能の教育に当たったもの思われます。翌年12月26日に綱紀公から勝次郎君に初めて料理が進上され、それを聞いた将軍の生母桂昌院から盃台と押物が贈られ、父子盃事があり、役者中が「四海波(しかいなみ「高砂」の一節)を謡い、が三番の内、勝次郎君「猩々(しょうじょう)を舞っています。

 

 

吉徳公は、歴代の藩主や大名が好むシテ方ではなく、何故か小鼓好み、しかも上手で、側近の寵臣を舞わせ、自ら小鼓を打ったという。この風潮が他の重臣以下の間に広がっていたそうです。)

 

吉徳公と能にまつわる逸話

「護国公年譜」によると享保11年(1726)2月15日、前年の12月将軍吉宗より贈られた“鶴”の披露があり、御能が始まる前に家臣に二汁五菜の料理が出され“鶴”が本汁であつたとあり、同年譜には、太夫の諸橋権進三構(今の芳斉2丁目)に屋敷を拝領し、10月29にから4日間にわたりを張行(興行)し、諸組頭支配人から家来の末々まで押しかけ、お上より遠慮のお触れがでたとあり、また、11月より13歳から御居間坊主として吉徳公に仕えた大槻伝蔵が23歳で、太夫諸橋権進について仕舞の稽古をはじめたとあり、その他の御居間方の者も、お次の間で乱舞の稽古をするよう云い付けられたとあります。

 

護国公年譜:享保8年~同20年の前田吉徳公の年譜に、御部屋住年表として元禄3年(1690)吉徳誕生より享保8年(1723)家督相続までの記録が1冊付録になっているもの。)

 

 

拙ブログ

嫉み、妬みから極悪人にされた男➀~⑩

 

宗辰公(幼名勝丸)の御能初め

享保19年(1734)3月10日に、吉徳公は昨年11月に誕生した総姫(なみひめ)の生誕の祝を含めた御能を催します。この日は、今までになく、まだお目見えも済んでいない近習頭や平士の子供にも能見物をさせ本格的な祝儀能ではないが、翁立であり、15歳の奥村数馬に、御能初めての大役を仰せ付けられ、去年の暮に京都から来ていた4代目(正月に先代の残知300石を引継ぐ)も竹田権兵衛も17歳。「翁」や「乱」「道成寺」などの曲は藩主の御前で演じてからでないと外で演じられないというので、囃子方も京都から呼び寄せています。翌4月25日、28日のお慰能では、勝丸君(後の7代宗辰公)初めて舞い、吉徳公は得意の小鼓を打ち、近習の人々にも、シテ役囃子方をさせ、お城付頭分の拝見は勝手次第と仰せ出されています。

 

大槻排斥の急先鋒で儒学者青地礼幹の「浚新秘策」によると、その頃、藩は厳しい財政悪化で家中の窮乏のため、享保19年(1734)12月20日頃、年寄衆が隠密に算用場奉行を招き寄せ、銀才覚のため、十村役や町年寄を京阪に遣わしますが、これは家老には秘密だとあります。また、吉徳公は、この年の帰国後、御能や放鷹はやめるよう言い出したとあり、享保の末から延享へかけて、華やかな御能の催しがないのは、銀不足のせいであろう。延享2年(1745)6月12日、吉徳公は金沢城で歿します。享年56歳。さらに延享3年(1746)3月5日5ヶ年計画で倹約令が出されます。)

 

そんな折、7代宗辰公御能好が高じ嵌ったのか、それとも前例に従ったのか、家督相続の祝賀能老中を招き延享3年(1746)8月26日に、10月25日には9代家重将軍宣下家督相続の祝いをかねて、一門の人々招き六番の能を催し、「嵐山」「松山鏡」2番を演じていますが、この年の12月12日に、22歳若さで歿しました。

 

≪御能と狂言の歴史❷江戸時代(武家)

江戸時代、今の能楽の原型が作られました。「喜多流」が加わり組織面だけでなく、芸の内容も徐々に今の形に近づいていきます。能・狂言が、江戸時代にも生き続けたのは、儀式に用いる「式楽」として江戸幕府の保護を受けたことにあり、多くの能役者は幕府の正式な儀式将軍・諸大名たちの私的催しに出演し、幕府・藩から給与を受けています。また、生活や芸事に対する厳格な監視を受け、さらに、将軍や大名などが自ら演じる娯楽であったのも能の大きな特色で、能役者は将軍や大名などの師範も務めています。このように権力者と密接な関係があったため、常に将軍の好みや政治状況の影響を強く受けていますが、幕府の儀式を彩りに華を添えています。

 

(5代将軍綱吉)

 

幕府の式楽:江戸時代の能は幕府の儀式に用いる「式楽」でした。江戸城本丸(将軍の住まい)と西丸(世継ぎの住まい)には幕府公式の催しに用いられる「表舞台」があり、将軍の代替わり・婚礼・出産といったお祝い事、先祖の忌日や家康を祀った日光東照宮参詣などの諸行事、貴賓の接待など公式の宴席には必ず能が開催され、幕府の重要な行事のほとんどに能が関わっていたのです。また室町期から正月におこなわれていた「謡初(うたいぞめ)」のように、能自体が幕府の欠かせない行事となっている場合もあり、江戸時代の能は様々な幕府式典を華やかに彩っていました。

 

江戸時代の能は将軍の好みに左右されることが多く、5代将軍綱吉は、将軍就任以前からも能に異常なほど耽溺しています。自ら舞うだけでなく家臣や諸大名などにも能を舞うことを強要し、さらに自分の能の相手をさせるために多くの能役者を武士の身分に取り立て江戸城内に仕えさせます。

 

綱吉は玄人の能の演じ方にもたびたび口を挟みます。本来のしきたりにならって、綱吉の命令に背いた役者が追放されることもあり、江戸時代に成立した喜多流は、大夫とその息子が一時追放されてしまい、流派存続の危機にさらされたほどです。また、綱吉は、当時上演が途絶えてしまった珍しい曲を観ることを好まれ、将軍の好みにあわせ普段めったに演じない曲や伝承が途絶えた珍曲を復活させなければならないので能役者たちは苦労したと云います。)

 

 

6代将軍家宣の時代にもそれは継承され、特に珍曲好みはいっそう拍車がかかり、綱吉時代以上の数の曲が復活上演されています。この時代に大きな権力を持った側用人間部詮房は、家宣周辺の御能の催しを通して頭角を現した人物だと云われています。しかし、状況は一時的なもので享保の改革で知られる8代将軍吉宗の時代には、御能の催しも縮小され、後代の規範を作っていきます。

 

綱吉・家宣時代には、珍曲が復活される中で、「大原御幸」「砧」「弱法師」といった名作と云われる曲が発掘され、能の演目を豊かにしたという功績は大きく、将軍たちの熱狂と冷静な眼差しが、能を今日の姿へと育てています。)

 

つづく

 

参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・「松雲公御夜話」等