金澤の御能➀金春流と藩祖利家公 | 市民が見つける金沢再発見

金澤の御能➀金春流と藩祖利家公

【金沢・名護屋・京都】

はじめに:昨年暮れ、観光ボランティアガイドの勉強会が石川県立能楽堂に催され、参加者が多くコロナ禍の中、密を避け2日間に分けて実施されました。世話を仰せつかり2日とも参加させて戴ましたが、能楽堂が開館してから50年も経過しているのに、近くに住んでいながら今回も含めて4回目(能・狂言の鑑賞は1回)の入場です。

日頃、御能について、興味も関心も無く、何が面白いのかと思いながら、金沢の能や謡の定番「空から謡が降ってくる」くらいの知識しかないのに、今までブロブには知ったかぶりで何回も書いています。

今回続けて2日も通う内、金沢の観光ガイドとし御能の基礎的な知識もないのに分かったように語って来たことに愕然とし、自分が無感動では何を語って伝わらないことを思い知らされました。今回はコロナ禍、暇ですので少し勉強をしてみる気になりました。

(石川県立能楽堂での勉強会)

 

密田良二(元金大教授)の「文化點描加賀の金春」によると、加賀藩祖利家公は、能好きで武術の訓練や戦術・戦略でいそがしい間も三日に一度の能稽古に励んだと書かれています。文中の「菅利家卿語話」によると、

 

(能楽堂の碑)

 

殿様御能好きに候へども、壱ヶ月におしたてる御能は壱度が、又は御うえ様、肥前様(利長公)・御咄衆など御あいさつに御所望候而は、二度も御座候。唯の御稽古に三日に一度も被成候

 

何時頃から稽古をはじめたのか、よく分かりませんが、太閤秀吉が文禄2年(1594)正月に、肥前名護屋の陣中で、もと山城八幡の神職で金春の流れをくむ暮松新九郎について能稽古を始めてから、名護屋の陣中で、能が流行り、四座(観世・宝生・金春・金剛)猿楽を受け入れて来ました。

 

(石川県立能楽堂)

 

「駒井日記」の文禄2年(1594)後9月16日の条によると、金剛宝生には預かり大名衆から1000石の扶持米を与え、金春父子には400石観世では200石の知行と奈良京都に与えたとありますが、金春観世には、この知行の他に、預かり大名衆から扶持があったものと思われます。利家公能稽古は、この名護屋の陣中で始まったと思われます。利家公の学んだのは金春流で、その扶持は金春禅曲安照父子であったと考えられます。ことに安照の子の七郎氏勝は、その頃20歳足らずで、利家公の歿するまでその愛顧を受けています。また西本願寺の家老下間少進法印仲孝は、能役者ではないが、禅曲安照の父の金春笈蓮の弟子で、禅曲安照立合能を演じても一般的に優劣が付けられなかったほどの上手で、その妻は利家公の弟の右近秀継でした。下間少進には関白秀次をはじめ歴々の弟子が多かったので、利家公もその世話を受けたのでしょう。下間家にある「能の留帳」には毎回その名が見えるそうです。「駒井日記」は、豊臣秀次の右筆駒井中務少輔重勝の日記。

 

文禄2年(1594)10月の太閤秀吉が禁中で催した能に、利家公は5日の源氏供養を、11日は江口を舞い、翌3年4月15日聚楽台の能で杜若を、同5月21日・24日伏見城の能では、半蔀・夕顔・杜若を演じています。又同年4月8日に太閤秀吉が利家公の京の邸に正式に訪れた時に、四座の太夫の演能があったと「駒井日記」にあり、当日の能組は、

 

一番 高砂 今(金)春子

二番 田村 観世 

三番 源氏供養 金剛 

四番 山姥 今(金)春太夫 

五番 猩々 宝生

 

とあり、「右何茂太夫並座之者共小袖一重宛、公用三百貫遣之」と記されています。金春父子がそれぞれ一番づつ演じているのが注目で、「言継卿記」によれば、慶長元年(1596)5月17日にも、禁中で、太閤・同若公(秀頼)・江戸内府・前田大納言等が能を演じています。

 

「言継卿記」は、戦国期の公家山科言継の日記で大永7年(1527)から天正4年(1576)の50年に渡って書かれたもので、有職故実芸能、戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料。

 

(金沢能楽美術館)

 

註:江戸時代までは能は1日中演じられていて、 公演するときは上の5つの種類の物をそれぞれ1つづつ、計5つの演目を1日で上演します。毎回、1日の1番最初に演じられるものを「一番」、2番目に演じられる物を「二番」、3番目に演じられる物を「三番」、4番目に演じられる物を「四番」、5番目に演じられる物を「五番」と呼ばれています。

 

慶長3年(1598)4月から同年5月にかけて、利家公は上野の草津に入湯します。その時金春七郎氏勝は針立(鍼医)の伊白が供されたと「利家記」に記している。つづいて七郎氏勝金沢に伴い犀川河原勧進能を興行させとあり、同記には、

 

金沢にて、今春にくわんじん能をも御させ、大名小名太刀折紙又は扇子を出し、一貫文500文300文のてあふぎ(扇?)を請申候。

 

とあり、その盛況を想像することができます。七郎氏勝は当時21歳で、彼は慶長11年(1606)12月父禅曲と共に江戸の下り、15年に35歳で早世します。

 

(前田利家公)

 

利家公の逸話として「国祖遺言」に記されているものに、伏見の川端屋敷で能道具を虫干しをしていると、奥村主計・岡田源左衛門・神谷左近・脇田主水・北村八兵衛ら若者どもが二階に上って、戯れに能衣裳をつけ、太刀をはいてふざけ散らしていたので、下で昼寝をしていた利家公はあまりの騒がしさに眼を覚まし、二階に上がって「あのつらどもは、以来左様の事をしたならば扶持を放つぞ」と𠮟り、大笑いして帰ったとあり、当時の闊達な気性と主従の情誼が窺われておもしろいと密田良二は述べています。

 

「国祖遺言」前田利家公の伝記(金沢市立図書館・加能越文庫)

 

つづく

 

参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』