名君綱紀公は、理系も超一流①幼少より動植物を愛したと云う・・・。 | 市民が見つける金沢再発見

名君綱紀公は、理系も超一流①幼少より動植物を愛したと云う・・・。

【金沢・江戸】

今年のある日、書店の古本市で66年前に発行された郷土シリーズ「文化點描」を見付け衝動的に買っていました。この郷土シリーズは、石川県立図書館にあり何冊かは読んでいますが、この「文化點描」は、シリーズの初期のものらしく図書館に有ったか無かったかは定かではありませんが、読んでいなかったものです。各回、当時、金沢ではよく知られた先生が交代で執筆していて少しマニアックですが、地元ならではの深掘りと著者の思い入れが込められていて、私は好きな郷土本です。しかし「文化點描」は買ってからしばらく積読(ツンドク)でしたが、今回、加賀の能楽について調べようと思い、開いてパラパラしていると、以前に何回かブログに書いた前田綱紀公(松雲公)の聞いたことのない話が書かれていて、面白くなって能楽を後回しにして調べ始めました。

三浦孝次著文化點描」

 

前田綱紀公は、寛永20年(1643)11月16日江戸に生まれ、父で4代藩主の光高公が31歳の若さで老中酒井忠勝をまねき饗宴のさ中、突然倒れ急死。正保4年(1647)6月13日父の遺領を継つぎ3歳で藩主となります。幼名は犬千代丸、元服は承応3年(1654)1月12日、元服し将軍家綱の字をうけ綱利と名付けられ同時に正四位下に叙せられ、左近衛少将・加賀守を兼ねます。万治元年(1658年)7月27日、綱紀公保科正之の娘摩須姫と結婚し、享保8年(1723)に81歳で隠居するまで、79年もの間藩主の座にあり、その初期は祖父利常公が後見しますが利常公亡き後、岳父保科正之の後見で、農政の改革殖産興業に力を注ぐとともに、学術・文化の振興に努めました。とりわけ古文書・古典籍の収集に積極的で、蔵書(尊経閣蔵書)の質の高さは、新井白石を「加賀は天下の書府なり」と感嘆させ、ほかに藩の「細工所」を整備して工芸技術者を育成します。また、本草学(博物学・薬学)の発展に貢献し、綱紀公名君と称されました。享保9年(1724)5月9日没。享年82歳。院号は松雲公

 

(綱紀公7歳の水墨画、模写)

 

綱紀公の逸話:幼少のころから動植物愛好し、採取したものは腊葉(さくよう)標本(印葉図・押し葉)を保存し、みずから細字でそれに解説を加えました。晩年にはその紙数万を越え三つの行李(こうり)に充満したと云われています。また、綱紀公はこれを「草木鳥獣図考(動植物の彩色写生図)と名付けています。この貴重な集積も明治のはじめ逸散し、いまはその断片をみるのみとなります。また綱紀公はすべてのことに徹底的の考証を行い、少しの疑問も残すことを好なかっと云う。家臣の学者らに、ときにはオランダ通詞について回答を求めたと云う。

 

(金沢城から見える山々)

 

拙ブログ

天下の書府②5代藩主綱紀公が万金を投じた書物蒐集

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12623472903.html

天下の書府③綱紀公は書物蒐集や学問振興、自ら編纂した著作を残す

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12624085883.html

天下の書府④当代一流の学者と名工を招聘

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12625043990.html

他、天下の書府・前田綱紀公のブログ多数。

 

(玉泉院丸の綱紀公デザインと云われいる色紙短冊石垣)

 

綱紀公の幼少は、わんぱく坊主ではあったが、生来、頑健なほうではなかったらしくそれが薬の研究をすすめるきっかけになったと云われています。また、思いやりが深く「仁慈の情」に富み、困っている人を助けるために、寛文10年(1670)6月16日金沢尾張町薬種問屋福久屋新右衛門宅へ前田家極秘の霊薬をお抱えの医師堀部養叔が出向き、それまで藩の秘薬として前田一門だけしか飲めなかった門外不出の三味薬調合を伝授し、以後、調合の法を城下の3薬舗、尾張町福久屋・南町中屋・片町亀田に伝え、庶民に売り広め薬種の振興に貢献しています。

 

(今も残る福久屋石黒傳六の看板)

 

綱紀公は当時集め得られる限りの処方を天下に求め、調合研究をやっています。また、当時随一の本草学者(薬学者)稲生若水を藩に召し抱え、薬の原料の研究を命じ、若水綱紀公の支援によって不朽の名著「庶物類纂」1000巻を編集しています。天和2年(1682)綱紀公39歳のときにはオランダから本草書が金沢に到来し、小判十両がそのために支払われ、政務最も繁多な折からであったが、綱紀公は研究を止めなかったと云う。

 

(松雲公採集植物の標本・松雲公小伝より)

 

稲生若水(1655~1715):江戸中期の名高い本草家。名を宣義、字は彰信といい、若水と号した。江戸に生まれ、儒医の父正治(恒軒、1610~1680)に医を学び、少時より本草の学を好んだ。元禄6年(1693)に加賀藩主前田綱紀公の儒者に召され、このときより姓を中国風の一字で稲と称しています。綱紀公の命により大博物書「庶物類纂」1000巻の編纂に着手しますが、362巻まで完成し、正徳5年(1715)、京都北大路の家で没した。本書はその後も子息の稲生新助や弟子の丹羽正伯らが吉宗将軍の命で増修を続け、全国の物産調査にもとづき計1054巻として完成し、幕府に納められた。若水には本書の他、「炮炙全書」4巻など多くの著がある。門下からは丹羽正伯・野呂元丈・松岡玄達など名だたる本草家が輩出し、当時の殖産興業と博物学の隆盛を大いに促した。

 

綱紀公は新羅万象について科学的解説を与え、自ら細字で書き続けた。桑華字苑(日本(桑)、中国(華)の辞書) 好祐類編(前田綱紀公の問に答えて編まれた博物書)は、今日の百科辞典とも云えるものです。この2書の中には数万の解説が載せられています。

 

(植物写生図・松雲公小伝より)

 

綱紀公の主なテーマ

(1)磁針北を指す原理(2)火薬の原料及び爆発力の強弱(3)石油について(4)薬方の研究であってことに“医薬の調合には異常に興味を示した”と云う。

 

三味薬とは「紫雪(しせつ)」「烏犀圓(うさいえん)」「耆婆万病圓(きばまんびょうえん)の三つの薬をいうもので、「紫雪」は夏季の暑気当りの解毒剤として、「烏犀圓」は疲労回復・強壮強精・中風の特効薬として知られ、また「耆婆万病圓」は、腹痛・疝気・流行り病・黄疸・小児の吐気など万病に効能があり、300年に渡る久しい間、われわれのご先祖さまや親たちがお世話になっていたかも・・・。

 

 

(つづく)

 

参考文献:「文化點描(加賀藩の医薬)」 三浦孝次著 編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「松雲公小伝」 藤岡作太郎著 発行者高木亥三郎 明治42年9月発行・「前田綱紀」若林喜三郎著 発行所吉川弘文館 昭和36年5月発行ほか