金澤・城南野町筋⑦野町のお寺さん(その一) | 市民が見つける金沢再発見

金澤・城南野町筋⑦野町のお寺さん(その一)

【旧野町界隈】

金沢市が発行するパンフレット寺町寺院群「静音の小径」に60数寺社が載っていますが、野町の大通り(南大通り)の寺院は、前項で紹介した旧野町1丁目(現野町2丁目)大蓮寺と旧野町3丁目(現野町1丁目)因徳寺の他に、大通りには面してはいませんが旧野町3丁目(現野町1丁目)の寺院の願念寺弘願院があり、他に藩政期からある旧野町5丁目(現野町3丁目)千手院と旧野町6丁目(現野町3丁目)光専寺、そして光専寺の隣の竪正寺、旧桃畠町立正寺と野町筋に6寺院がありますが、今回、その内3寺院を調べます。

 

(願念寺)

 

木一山願念寺(浄土真宗大谷派)

金澤古蹟志には、東派真宗道場野町願念寺と紹介されています。開基は慶祐とあり、山城国愛宕郡常葉町下間丹後法橋の次男で、幼名千代丸と云い、20歳の頃、越前国北之庄の城主柴田修理勝家の招きで、越前へ下向し越前国足羽郡三ヶ村石場と云う所で一寺を創立し、本行寺と号したとあり、本願寺が東西分派の時願念寺と改称し、後に加賀国へ移転、金沢河原町に寺地を賜り、寺院を造立したところ、寛永16年(1639)に野町の今の地へ移転を命ぜられ、坪数176坪を賜り造営した。とあります。門前には、松尾芭蕉「塚も動け我が泣く声は秋の風」の句碑があり、この句は芭蕉が弟子の小杉一笑の死を知り詠んで句で、境内には、一笑の辞世の句「心から雪うつくしや西の雲」の句碑とお墓があります。また、金沢に3口存在する明治期の朝鮮鐘のうちの一つで、この鐘は、幕末から明治の初め官軍の大将で行進曲に歌われた♪♪宮さん・宮さん♪♪有栖川宮熾仁親王の銘が入っています。

 

(願念寺の門前・つかもうごけ・・・の句碑あり)

 

註:この鐘には、陸軍大将有栖川宮熾仁親王の銘が入っていたので、太平洋戦争時、供出されなかったと云われています。

 

(願念寺の鐘楼)

 

(疑問:願念寺さんの由来記には、加賀では初め宮丸(現在の白山市西新町)とあり、後に金沢河原町に分院として寺院を造立したとあります。寛永16年(1639)?に現在地に移転とあり、また、門前の解説には万治2年(1659)に河原町から移転とあります。)

 

拙ブロブ

寺町寺院群2時間ガイド④

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金沢の「奥の細道」➁犀川辺り(その二)

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(弘願院の門前)

 

安養山弘願院(ぐがんいん)(浄土宗)

創建は正保2年(1645)で、開基は願與凡無上人(当時蛤坂妙慶寺在住)で、一時期途絶えますが延宝2年(1674)に再建されます。弘願院は、長らく妙慶寺の三つの下寺(ほか三光寺・成学寺)のうちの一つでしたが現在は独立した寺院です。本堂は江戸中期の建物で、寺宝は全面刺繍で創られた「絹本地刺繍仏涅槃図」は、近年では期間を定めて公開されています。全面刺繍とは、表具の総縁部分や表装の裏側一部及び、風帯の裏側に結縁者や発願主、勧進主などの戒名・俗名などの人名を刺繍で記載され、画面内の会衆のいくつかに戒名人名など色々に刺繍されています。

昭和53年(1978)4月11日に金沢市指定文化財。

 

寒山拾得図(弘願院の什物):寒山も拾得の2人は中国、唐時代の詩僧で、共に世俗を超越した奇行が多く、また、多くの詩を詠んだと云われて伝説の人物で、絵は寺町の浄土宗大円寺三世住職の画僧心岩の作品。)

(写真は、2019年3月17日撮影)

 

(今の戸室山・新桜坂より)

 

長久山千手院(高野山真言宗)

千手院のパンフレットによると、天長年間(824~834)坂上田村麻呂の末裔の衆愛法印が京都の清水寺の十一面千手観音(黄金造り・1寸8分)を勧請し、鶴来で(今の金剣宮並び北方畠地)創建し白山衆徒や近郷住民の崇敬を集め繫栄したという。その後、兵火のあい、河北郡井上庄福久に移り、元亀3年(1572)勝誉法印の時、戸室山頂に飛櫓(戸室)権現(木造り・3尺3寸)を奉安し、その別当寺となり、不動明王・白山権現・愛宕権現を安置し、山麓の田之島村に自坊を再興したとあり、この戸室山は泰澄大師が医王山禅定の時、内外の室があり、その外室であり山頂から西の方の一段下がったところだったという。

 

(野町の通リに面した千手院)

 

天正年間には、藩祖前田利家公の参詣が数度あったという。天正12年(1584)末森の合戦では「箭違のお守」を献じて戦勝を祈願し、引続き前田家の祈願寺となり、藩公から十一面四十手観音をお預かりしたとあります。慶長5年(1600)金沢城近くの修理谷(現兼六坂辺り)に寺屋敷を拝領し移転しますが、元和年間(1615~1624)には再び城内拡張のため野町3丁目の現在地に移転したとあります。

 

(今の本堂・藩政期は護摩堂)

(藩政期は門は玉泉寺(現野町公民館)側を向いていました。寛文7年の金沢図より)

 

清水寺のご本尊「十一面千手観世音菩薩」は、十一の表情と四十二の手で大きな慈悲をあらわし、人々を苦難から救うといわれています。無病息災や立身出世、良縁といった現世利益を願う人々に篤く信仰されたこともあって、古くから親しみを込めて「清水の観音さん」と呼ばれています。

 

(千手院のご本尊十一面千手観音像は、京都の清水寺のご本尊の模像ですが、古作の仏像と言い伝えられています。宝暦4年(1754)お預かりの本尊十一面四十手観音が盗人に取られ、犯人は越前で捕まるがその盗人は道心者で、8年前に千手院に召し置かれていたが、不行届きで勘当になり、追い出した者である事が分かったと云う逸話がありますが、森田柿園は金澤古蹟志で、この観音様をお預かり本尊というのは過聞なるべしと云っています。また、弘化年中(1844~1848)にも盗人が入り、住職を殺害し、金銀を盗んだとあります。)

 

(左加賀藩お預かりの観音様・右体内に1寸8分の御本尊が納まっているとか。千手院パンフより)

 

 

駒札(門前の解説板)には、寺宝の十一面四十手観音様は前田家の預かりとなっていますが、金澤古蹟志では、寺宝の千手院馬頭観音が、前田家よりお預かりで、前田家の祈祷所として、毎年護摩木と称し、山林の松木を毎年一ヶ月二荷あて賜ることになっていたらしく、千手院に残る書簡に寛永14年(1627)閏3月初めて賜り、以後恒例になっていたとありますが、この馬頭観音来歴も伝承も無く、前田家より預かった月日の不明だそうです。

 

(千手院の観音様は、見たこともないので、よく分かりませんが、一般的に観音菩薩は、いろんな姿で現れ、あらゆる衆生を救ってくれるということを示す「千手観音」人々のことを見ていることを示すための「十一面観音」迷いを追い払う力強さを示すために「馬頭観音」で、観音菩薩は変化観音と呼ばれるのは、いろんな姿に変化し、それだけに観音さまが何人もいるのではなく、信じるものの希望通りの姿で現れるという。見る人の心次第と云われていますが、千手院の観音様「千手観音」「十一面観音」「馬頭観音」の3体が祀られているそうです。)

 

(千手院のパンフより)

 

(本堂の右奥に木靴を履いた「そうめん地蔵尊」(木造り・3尺3寸)が安置されています。何時の時代からから町に出歩きそうめんを食べ歩いたという伝説が伝わっています。)

 

つづく

参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行 パンフレット「静音の小径」金沢市発行 パンフレット加賀藩の祈願所「長久山千手院」 パンフレット「浄土宗安養山弘願院」 地図古今金澤など