金沢・中央通町①昔の町名
【旧寶船路町ほか】
旧寶船路町と周辺の旧町名の町が、昭和40年(1965)9月1日に「住居表示」「町名の合理化」で10町以上の町名が消え中央通町になりました。金沢公式ホームページの”金沢の旧町名“によると寶船路町を含む9町の内2町がそのまま中央通町になり、ほか7町は一部が長町2丁目や長土塀3丁目、片町2丁目に含まれ、なんとも情緒も風情も所縁も感じられない無粋な町名“中央通町”が生まれました。
(中央通町)
(当時、金沢市では、昭和30年代の後半、郵便配達が細々した町名では労が大きく、また遅延の原因だからという触れ込みで、東京オリンピック景気の最中、新しいモン好きの金沢の人たちが、未来を夢見るあまりに古いことを省みないという、その頃、流行った時代風潮が後押しとなり、役所が乗ってしまったのだという話を聞いたことがあります。)
拙ブログ
藩政初期は武家地だった旧南長門町・旧北長門町そして旧塩川町
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12541098388.html
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12540062874.html
(中央通り)
(昭和37年(1962)5月、「住居表示に関する法律」が施行され、金沢市に933町あった町名が約520町になります。しかし、全国的には反対も多く、昭和41年(1966)11月、当時の内閣総理大臣佐藤榮作は「複雑な町名などを整理するための自治省の行政指導が、部分的には行き過ぎもあるようなので、町名変更に関しては自治省からあまりに強い圧力的なものはかけないよう」に指示し、それを受けて当時の官房長官愛知揆一が記者会見で「お役所の画一的な運用で歴史的、文化的な町名が失われることのないよう自治省に注意を促す」と言ったという、以後、全国的には熱が醒めたという話もあります。)
(中央通町)
●中央通町の旧町名 《中央通町になった町》 下傳馬町: 藩用の人や荷物を運ぶために六十六匹の伝馬が置かれたことからこの名がついた。伝馬・馬借の居住地があり、厩舎があったことによる。伝馬町は、上・下・後・横伝馬町が伝馬町であった。藩初は橋場町付近に置かれていたという。 裏傳馬町: 上傳馬町の裏側にあったことから、この名がついた。藩初は橋場町付近に置かれていたという。 《中央通町と長町2丁目になった町》 塩川町:加賀藩士、塩川氏の屋敷があったところなので、この名がつけられた。地子町の一つ。 南長門町: 加賀藩士、山崎長門の邸地があったところから、はじめは長門町と呼ばれていた。文政6年 (1823)、長門上ケ町が町立てされた。長門上ケ町は、文政6年(1823)改称され、南長門町になった。
寶船路町:寛永の大火のあと、犀川大橋詰にあった法船寺がこの地に再建されて、門前町をつくり法船寺町と呼ばれた。明治4年(1871)寶船路町に改められた。地子町の一つ。 《中央通町と長町2丁目と片町2丁目になった町》 横傳馬町:藩政時代、藩用の人や荷物を運ぶために六十六匹の伝馬が置かれたことからこの名がついた。藩初は橋場町付近に置かれていたという。地子町の一つ。伝馬役を勤める上伝馬町の横町だったことにちなむ。 《中央通町と長土塀3丁目になった町》 西馬場町:ここにあった馬場は古名を法船寺馬場と云い、法船寺の尻地にあり旧藩中は犀川馬場云う。 明治4年(1871)、犀川馬場先と犀川馬場前が合併して、西馬場町となる。因みの浅野川馬場を東馬場 町とも云い、「住居表示に関する法律」が施行までは馬場何番丁と云いました。 新川除町: 寛政7年(1795)、川除町のうち、宝久寺辺りから大豆田の町端までを犀川川除町とした。明治からは、新川除町と称した。地子町の一つ。 《中央通町と長町2丁目と長土塀になった町》 富本町:文政6年(1823)に法船寺町から分立し、町内に鍔屋小路も含まれていた。明治4年、広小路と等雲寺門前を合併する。町名の由来は不詳。地子町の一つ。 (金沢市公式HP“いいね金沢”の金沢の旧町名より) |
上記は、金沢市公式HPの「金沢の旧町名」を参考にしたものですが、昭和8年(1933)の金澤地図などにある町名が、何故か?町名も由来も記載されていませんので、明治時代に書かれた森田柿園著「金沢古蹟志」で調べ以下に記します。
(昭和の初めの金澤地図)
旧下川除町
元禄9年(1696)地子町肝煎裁許附に犀川川除町とあり、昔、川上より川下まで、すべて川除町と称していたが、寛政7年(1795)2月、犀川大橋より寶久寺(今の犀川神社)までを、犀川下川除町と唱えていて、金澤町会所留記に載っていて、この時より上川除町・中川除町・下川除町と称したという。
(犀川神社)
(寶久寺 春日四所明神、本山派山伏。現在の犀川神社:藩政期は中村神社の別社で“寶久寺の春日”と呼ばれ、修験派山伏の觸頭生廉山が寶久寺に奉仕していました。また、寶久寺の元祖空峰の双子の弟(祇園社・最近廃寺の蛤坂上八坂神社)は、藩祖利家公と幼友達で、大和の国大峰山(山伏修験道の本山)への代参をした間柄で、利家公と共に金沢に移住したのだそうです。)
(旧茶木町)
旧茶木町
この町は土室小路の奥と呼ばれ、古い町名ではなく、文政4年(1821)金澤市中に新しく町名を建てた時、この辺を茶木町としました。藩政期には法船寺の上の金澤町付組地(町付足軽40人の組地)で法船寺組地と呼ばれ、明治4年(1871)戸籍編成の時茶木町と合併します。
(土室淨照寺)
(室生犀星のラブレーター:明治37年(1904)県立第一女学校に恋文が届けられます。宛名は3年生の淨照寺の娘土室きわ宛で立て続けに2通が送られてきました。送ったのは1歳年下の室生照道(犀星)少年でした。当時、良妻賢母を養成する県立第一女学校は特に男女交際に厳しく、異性に関われば即刻退学処分さえ受けねばならないところでしたが、差出人(照道少年)が土室きわとは何の関係もない事が判明し、担任の先生より戒告を受け手紙は没収され、その場は収まりますが、事件はすぐ級友に知れ渡り、親しい友人からも「それ見まっし、平生きかんさかい、男の子から手紙なんかが届くがや。気を付けんかいね。学校や組の恥になるがやゾ・・・」と云われたらしい・・・。(長町2丁目の旧町名伝馬町(上・下・横・裏)紹介済)
(土室御坊から犀川へ抜ける路)
旧古藤内町
調べてみて市役所(公式HP)が書かなかった理由が分かりました?うっかり書いて“差別用語禁止警察”の投書を避けたものと思われますので、私も右へ倣へします。詳しくは「金澤古積志巻21」に・・・。
(犀川河原)
旧西御影町
この地は、元犀川の河原で、寶久寺河原と云ったという。川幅が広大で慶応3年(1867)に卯辰山開拓と同時に開拓し、四百五~六拾間の浅い川中に土居を築き、一万五千歩(約5万㎡)余りの平地をつくり150軒余りの町になり、住民は商業を営みます。明治3年(1871)7月卯辰山を東御影町と名付け、この河原を西御影町とします。東西両町遠隔でしたが、卯辰山の卯辰神社の氏子とします。しかし、明治6年(1873)、命じられて西御影町は犀川神社の氏子になります。その後、西御影町は一時繁盛しますが、明治13年(1880)5月28日、この地より出火し、家屋が多く延焼し、後に再造しない邸地も多く、田畑になり町は衰微したなどと、「卯辰山開拓禄」や「金澤古積志」に記載されています。
(上寛文7年の絵図とgoogleマップ、+の印は上下同じ位置です。(古今金澤より)
(西御影町・卯辰山開拓禄より)
(卯神社造営の時、石方役所が西御影町にあり、石川郡小原の石を(御影石?)伐り出し川舟で運送したという。金石よりも川舟数10艘で諸荷物を揚げ戻り舟で石を積み下げ他国へ売さばいたという。また、金石も卯辰山の養生所生産方の出役所があり取さばいたあります。)
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 金沢市公式HP 「卯辰山開拓禄」開拓山人(内藤誠齋)著 明治2年2月発行 「古今金澤」金沢の古地図と観光アプリ 株式会社エイブルコンピュータ など