貨幣は国家が造るもの・・・⑥デフレからインフレへ | 市民が見つける金沢再発見

貨幣は国家が造るもの・・・⑥デフレからインフレへ

【江戸・勘定奉行所】

はや6回目。にわか勉強なので、始めからの話が忘れそうです。ここで少し復習します。確かに荻原重秀の業績は、元禄の改鋳により、慶長小判2枚鋳つぶし、銀で薄め3枚の元禄小判を作り、年間に70万両(七百億円)だった幕府の歳入を、5百数10万両(五千数百億円)の出目(益金)を稼ぎ、一挙に8年分近い収入を得たことにありますが、それにも勝るものに貨幣は国家が造るもの、たとえ瓦礫(役に立たないもの)であっても行うべしという理念です。

 

一両(小判)の改鋳を実行したのが荻原重秀で、名目貨幣の発行です。瓦礫でも政府が判子を押せばお金になる“ということに気づき、現在の世界の貨幣制度で、お金(通貨)が金交換(兌換)の裏づけのない銀行券(裏付けは政府の信用)のようにした世界で最初の人でした。)

 

拙ブログ

藩政期の一両が1円になるまで・・・

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12103346644.html

5年程前にまでシリーズで書いたものです)

 

 

 

そして、デフレからインフレへ、結果として元禄文化の華を咲かせ、農村における商品作物生産発展し、都市町人による産業の発展経済活動が活発になり、それが文化、学問、芸術元禄文化発展に繋がります。

 

(今でさえデフレから緩やかなインフレに移行するのが難しく、インフレからデフレに移行させる方法は幾つかありますが、デフレをコントロールする方法は”国の支出拡大””徴税を減らすしか無いと云はれていますが、何故か今までの国の偉い人はインフレを避けたいのか?緊縮政策は生活者の負担を増す消費税増税を進めています。昨年の10月に、減らすべき徴税消費税が上がり、国民の顰蹙を買っていると識者は云っていますが、私もそう思います。)

 

復習の回でしたが、デフレインフレが出てきたので一寸脱線します。近年、先進国の中で、デフレで苦しんでいるのは日本だけ!!先進国の中で、この20年間で、給与が下がっているのは、先進国ではほぼ日本だけ!!先進国はどこの国でもリーマン・ショックを経験し、同じように不景気を経てきましたが、OECDの統計によると、先進国はどこの国も、給料は上がっていますが、日本だけが給料が下がっているのです。(今は新型コロナ対策で世界の状況が掴めなくて分かりませが?)そしてバブル崩壊後の日本経済は、緊縮財政が常態化し、しかも借金が約1000兆円も有るとし、消費の罰金のような消費税の増税をあおり、直接税の法人税や所得税を下げ、そして人件費が下がり“人件費が下がったからデフレになった”という識者もいます。

 

(そう云えば、最近、余り云われなくなりましたが、政府も自民党も学者もはたまた大手マスコミも声を大にして言っていた「1980年代の頃から、日本には1,000兆円の借金があり、年間100兆円が必要で、その借金を孫子の代に残すのか!?・・・増税しないと財政破綻する!?」と云う声が聞こえなくなりましたが、本当の事だったのでしょうか!?だったとしたら、政府も自民党も学者、大手マスコミも皆、信用出来ませんネ!!)

 

 

 

元禄のインフ

前回も書きましたが、元禄年間、荻原重秀が、幕府の財政拡大政策として元禄8年(1695)の元禄の貨幣改鋳金銀含有率の引き下げ通貨量1.5倍にするというもので、結果インフレになり、通貨供給量(マネーサプライ)が増え、太平の下で物資の生産が増えてだぶつき、デフレ気味であった経済を立て直します。また当初の引替に対し慶長小判100に対し、元禄小判101両(増歩1%)と僅かなプレミアムしか付けなかったため引替はあまり進まず、貨幣流通量の増加が緩やかで物価水準が徐々ですが持続的に上昇する状態だったと云われています。

 

(当時の通貨の未発達な段階に於いて品位を低下させ名目価値を増大させます。しかし実質価値(秤量貨幣)としての通貨増大という経済的意義には繋がってはいなかったとする頭の固い学者もいます。)

 

 

宝永のインフレ

元禄16年(1703)には関東諸国に巨大地震である元禄地震、続いて宝永元年(1707)に宝永地震・宝永大噴火と自然災害が相次ぎ、加えて徳川家宣の将軍代替わり皇居造営費などと幕府の財政は本格的に慢性的な赤字に転落し、荻原重秀は更なる銀貨の改鋳を建議し、一方で新井白石家宣「悪質なものを出せば天譴をうけて天災地変を生ずるおそれがある」と合意して、正徳・享保小判では品位を慶長小判に戻すがデフレに陥り重秀は銀座と永字銀など品位を下げ銀貨を相次いで発行しインフレに戻します。

 

 

元文のインフ

徳川吉宗享保の改革においても金銀含有比率を維持するために緊縮財政を続けますが、米などの物価が下落したので、大岡忠相の強い進言により元文の改鋳を行い、金品位を下させると共に貨幣流通量を増加させ、デフレを抑制し、このとき旧金貨(慶長小判、享保小判)100両に対し、元文小判165両(65%の増歩)を付けて引替え、かつ改鋳は3年程度で大半が終了するというもので、通貨量の急激な増大し、インフレ率10%越~数10%程度と高く(現在の理想は2%~3%)物価は持続的に上昇し、景気と幕府の財政は回復し、特に財政は宝暦8年(1758)には最高の黒字額を記録しています。宝永の改鋳では、金貨の流通量は減少しているものの、銀貨が増加したため、全体の金・銀貨の流通量が増加します。

 

元文の改鋳の目的は、元文小判の含有純金量は8.6と、正徳・享保小判15に比べて半減させ、改鋳益金(出目)の収得を犠牲にし、新貨の流通を促進することで、当時の経済状態は、正徳・享保の改鋳で生じた金融逼塞が悪化してデフレギャップ(需要よりも供給力が多い)が高く、そのため元文の改鋳により通貨供給量(マネーサプライ)を増加させ、経済の拡大に効果があったものと思われます。)

 

 

幕末のインフレ

幕末の頃、日本の金銀比価は約1:10と金安で、その頃、銀貨も一部名目貨幣で一分銀(8g)が多く流通していました。欧米ではその頃、金高の金銀比価が約1:15。安政の仮条約通商が始まると、欧米各国は日本に大量の銀を持ち込み、金の小判を買い漁り、これを本国で鋳潰して公定価格で売るだけで大儲けします。当時はまだ金銀交換量に制限が設けられていなかったため、それで大量流出が起こり、幕府は流出を防ぐため天保小判1枚を312朱の増歩通用とし、質量が3割弱に激減した万延小判と、さらに含有金量の少ない二分判を多量に発行して通貨価値は飛躍的に減少し、このためと輸出による物資不足、諸藩の軍備近代化のための輸入増加に伴う通貨流出等の相乗効果で物価が騰貴して、インフレで庶民の暮らしは苦しくなり、それが江戸幕府崩壊の一因だと言われています。

 

(安政6年(1859)の物価を100とすると、慶応3年(1869)の10年間で物価は約3人件費は1,5になり、幕府の埋蔵金も底を着きます。その要因の一つは、日本はすでに名目貨幣になっていたのに、世界の通貨はまだ鉱物の重さで決められていて、日米修好通商条約の条項にも「内外の貨幣は同種同量による通用」と書き込まれているのに、幕府役人日本と諸外国の通貨のシステムの違いを見落としていたらしい、やがて日本が名目貨幣諸外国は鉱物の秤量貨幣であることに気づき、何度も交渉しますがアメリカ領事ハリスには聞いて貰えず、ハリスに強引に押し切れて調印したことが原因でした。)

 

いずれにしても、世界や日本の産業や国民生活には、デフレインフレのどちらが良いかはケースバイケースですが、どちらも極端なケース(デフレスパイラル・ハイパーインフレ)は困ります。理想は、ゆるやかな物価の上昇にスライドして賃金も上がっていくことでしょう。デフレインフレも、企業業績大きく影響するだけに急激な振れ方をしないことが望まれます。

 

(つづく)

 

参考文献:「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著 集英社新書 20073月発行・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」など