貨幣は国家が造るもの・・・③荻原重秀の天才的な気付き!! | 市民が見つける金沢再発見

貨幣は国家が造るもの・・・③荻原重秀の天才的な気付き!!

【江戸・勘定奉行所】

今でこそ、名目貨幣は世界で常識ですが、何故!?世界に先駆けること200年も前に東洋の小さな島国日本で、それも40歳に満たない叩き上げの官吏気付いたのでしょうか?一言で云えばIQが高くて天才だった”という事なのでしょうが、それだけなら、今も日本の官庁には自他ともに認める人は居そうなものですが、果たして何処が違うのでしょうか?少し断線して調べ見ることにします。

 

 

 

  

先ず生い立ちは飛ばし職歴ですが、荻原重秀(彦次郎)17歳の時、勘定所に役高150俵で召出されたのは、延宝2年(167432人もの勘定が新らたに大量採用された内の1人です。その頃の勘定所勘定奉行(元禄年間までは勘定頭)支配下で職務は勝手方(経済財政担当)と公事方(訴訟担当)で、今の財務省と法務省の役割に加え幕府直轄の郡代・代官・蔵奉行などを支配していました。他に勘定奉行から独立して荻原重秀(彦次郎)も拝命される勘定吟味役(旧勘定差添役)があり勘定所関係の一切の仕事に不正がないかを調べるもので、勘定吟味役は、今の会計監査官に相当します。

 

(当時、平勘定50人前後のところへ32人の新人は幕府勘定所始まって以来の大量採用で、新採の平均年令は26,6歳、荻原彦次郎は現役組頭の息子桜井平左衛門の16歳に次いで若い17、最年長は46歳、ほぼ直参旗本でお目見えの勘定方の子弟で、同期のライバルも多く、しかも年少でした。)

 

 

 

延宝検地≫

荻原重秀(彦次郎)が、始めに頭角を現したのは延宝検地でした。大量採用は検地のため

のもので、以前の寛文34年(16631664)の17人の採用も寛文検地が実施されているところから、延宝5年(1677)から行われる延宝検地に備えであったものと思われます。延宝7年(167912延宝検地が終了した段階で、幕府は延宝検地に貢献した勘定組頭3人勘定7人に褒美が与えてれその中に荻原重秀(彦次郎)が列挙されています。そのうち5人が延宝2年採用組で、後に3人が勘定組頭になり、最も早く組頭になったのは最も若い22歳の荻原重秀(彦次郎)だったと云います。

 

(延宝検地は主に五畿内の天領(幕府直轄地)で太閤検地以来80年検地が無かったとこで、全天領の5分の1(石高にして80万石)のところで、実施の当たっては幕府の代官ではなく近隣の大名に検地を実施させ、近隣大名の幕府への忠誠心に対する競争心を煽り、その大名の検地を鵜呑みにせず、検地の最中に勘定所から巡見団を派遣するなどあらゆる手と頭を使ったと村井敦志氏の「勘定奉行荻原重秀の生涯」には書かれていて、その計画策定に年少の彦次郎が中心的な役割を果たしたことは間違いないとおっしゃっています。)

 

徹底した代官粛清

30歳の時、延宝8年(16805代綱吉が将軍に付くと、延宝検地の結果を受けた重秀は綱吉や幕閣に対し世襲代官制の弊害を提言し、荻原重秀(彦次郎)は一人で代官会計調査に任じられ、それを受けわずか3ヶ月会計監査で幕府の世襲代官達を一掃し、3人の勘定頭勘定奉行)を総退陣に追い込み、代官の完全な官僚化を推し進め、荻原重秀(彦次郎)は貞享2年(16829勘定吟味役に抜擢されます。

 

重秀の代官検査は徹底していて、勘定頭3人全員と勘定吟味役1を解任され、勘定の多数を降格されたり小普請組(予備役)入りになったり、直接査察対象の代官の中には、息子もろとも切腹させるものが相次いだという。その調査能力には、その時代、他を抜きんでていたようで、また、諸々の事象から推測すると人の機微が分かり、元同僚や上司に対しても情け容赦なく、勘定一同、心から震え上がったと思われます。)

 

 

 

佐渡奉行兼帯

荻原重秀(彦次郎)34歳の時勘定吟味役佐渡奉行を兼帯します。当時、元禄期は佐渡金山産出量は最盛期の元和期(161524)の8分の1(100㎏)に落ち込んでいました。いわゆる鉱物資源の枯渇に直面していたからこそ、世界で初めて名目貨幣の通用実験が可能でした。それに気付いた荻原重秀(彦次郎)は、天領である佐渡の経営を抜本的に立て直し、幕府財政の改善にと壮大な計画を幕閣に具申し佐渡奉行任命を勝ち取り佐渡へ渡ったものと思われます。荻原重秀(彦次郎)は、元禄4年(16914月に佐渡奉行所に到着後4日後には、山主に事情徴収、島内巡検し、方策を練り、6月には留守居、町奉行、目付役、山奉行と山目付、佐州役人等に宛てた布告を出しています。

 

 

 

荻原重秀(彦次郎)の「新しい佐渡経営政策」の真骨頂は、山奉行と山目付に宛てた布告で、以下要約すると

 

「近年、佐渡の銀山は、衰微したうえに、幕府よりの投資が十分でなく、山の様子はよくないと聞いている。この度は資本投下を十分に行うので、それを受け取るからには山役人の勤め方を心掛け善悪は留守居役とよく相談し、場合によっては奉行所に申し出るように、投下資本を無駄遣いしたり、生産された金銀が紛れてしまったりしたら山の不繁盛の基である。たとえ投下した資本と生産額の差し引きが公儀の損失になったとしても、今後ずっと、山々には十分な資本投下を保証する。しかし、資本投下の使い方が適切でないことが判明したら、山々の受け取りは停止、役人から出稼ぎまで、取り調べた上、どんな厳しい処分が有るか、計り知れない。右のこと、言わずもがなとはいえ、十分心得るように。油断なく、山役人、山師、大工(鉱夫)まで、勤め方のよい者は取り立て、よくない者は処罰するように、心得るように。」

 

実際に元禄8年(1695)から15年まで、合計11万3千両の資本が投下されています。

 

大規模排水溝掘削に投入した資金:巨大な排水溝は、金山が地中深く深く掘り進むにつれ、最大の問題は地下水の汲み上げ作業に膨大な人出がかかり、人海戦術にも限度があり荻原重秀(彦次郎)は、金山から日本海に面した沢へ通しる排水溝を掘るよう命じています。こうした大規模な土木工事は、個々の山師にはできないから、公共工事として行うのは適切な措置であります。それにしても、荻原重秀(彦次郎)は元禄4年(16914月に佐渡の奉行所に入り、3ヶ月後7月に堀削作業に入っています。ところが佐渡に居たのは2ヶ月半滞在の後、江戸へと帰還したという。佐渡経営に新しい政策を打ち出し、役人山師に指示を出し、農村からに収穫量を書き出させ、以後23年間、佐渡には一度の行かず佐渡奉行を勤め続けてという。また、元禄6年(1693)佐渡の年貢の年貢収入と鉱山経営を同一会計で処理することにしています。)

 

経験を活かした荻原重秀(彦次郎)

空から地上を見れば方向は見えるが、地上の起伏が見えない、ところが地上を歩けば起伏は見えるが方向は見えない、しかし、荻原重秀(彦次郎)にはそれが過去の体験から同時に見えていたのでは!?

 

 

 

(重秀は、マクロとミクロの両方を同時に使っています。マクロとは「巨大な」という意味があり、政府、企業、家計を一括りにし経済社会全体の動きで、空の上から森全体を見えるのがマクロ経済で、国や政府のレベルで物価や消費、金融などの動きを国全体から考えることができ、一方、ミクロ経済はその逆で、ミクロには「微小な」という意味があり森の中の木を一本一本見えるというもので、人の機微や企業の細かい動を分析することがミクロ経済です。)

 

荻原重秀(彦次郎)は以後、38歳の時に金銀改鋳、42歳で長崎会所設置50歳で幕府の

増収を模索し、地方直しや東大寺の仏殿再建に取り組み、元禄大地震や富士山の大噴火などの大災害への対処など実に多彩に業績があることが分かります。これをクールで正義感の塊天才荻原重秀(彦次郎)のややインフレぎみのマクロ経済により乗り超えられたモノと思われます。

 

(つづく)

 

参考文献:「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著 集英社新書 20073月発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)など