嫉み、妬みから極悪人にされた男③大槻伝蔵の屋敷と下屋敷 | 市民が見つける金沢再発見

嫉み、妬みから極悪人にされた男③大槻伝蔵の屋敷と下屋敷

【加賀藩金澤旧仙石町・旧千日町】

金沢古蹟志には、伝蔵は金沢城東丸の御獅子土蔵から前田家が代々貯用した金銀を取り出し宝蔵を空っぽにするばかりでなく、百姓町民に運上金を課し、“御為(おんため)と称して国中(藩内)金銀を取り上げ、倹約を旨とした給米江戸詰めの扶持高を減らすため、時に、藩士に米相場の話を聞かせ、藩祖利家公以来の命令や規則に背き、また、自分の親族一類を日々立身させ、新規に少ない扶持の者を抱え、自分の支配とし、自分の手で出来る限り立身させ恩を施し味方にし、後に自分の一族数十人をみな300石以上とした。と、何処かで聞いたような成り上がり者の典型が書かれています。

もしかして伝蔵は今流行りの“今だけ、自分だけ、お金だけ”の人物だったのでは・・・・??事実は如何に!!

 

(大槻伝蔵の屋敷に有ったという式台・今、中央通町法船寺)

 

大槻屋敷跡

今中学校(いしかわ四高記念公園辺りか?)の地内なり。廃藩前は、金谷門の前通りに大いなる古松4株路傍にあり。これ大槻在世の頃門前の松だと云われています。古老の伝説に、文政5年(1822金澤学校(藩校明倫堂・経武館)この地へ移転せり。その以前は大槻屋敷跡と称し、泉水築山の跡など残りその地辺の前後は空地なので桐の木などを植えてあり、数千歩

の間、剕棘(いばら?)生い茂り、ようやくわずかに往来の細道あるのみだった云う。

 

(大槻伝蔵の屋敷跡・それ以前の延宝期の金沢図)

(金谷御殿跡・今の尾山神社)

 

護国公年譜には、享保13年(17286大槻伝蔵屋敷ぎわ堂形前より仙石町の方へ新道つく。享保14年(1729422仙石町御用地之内、方々水溜仰せ付けられ、鳥付体これ無く、御用これ無きに付き、大槻伝蔵屋敷之内へ入れ、水道を付直し、飲み水は仙石町往還の道際最前の通りに通し、その外水溜堀・土取穴等寄々埋めるべき申し出たとあります。

大槻まだ130石の小身の時より、この地に屋敷を賜っていた事は知られていたようです。

(3年後の元文2年(1737)前田修理の娘を娶り屋敷は、東方35間、西方30間、南北36間。使用人は給人、侍分、足軽、小者、下女など100余人。)

 

(大槻伝蔵の屋敷跡辺り)

(大槻屋敷の有ったと云われている鬼瓦)

 

大槻御成門

従前は金澤学校(藩校明倫堂・経武館・後の四高の後地に往来あり、片側は学校、片側は細工所の土塀たりしが、古き門あり。この門を大槻御成御門と俗称す。そのかみ大槻の全盛の頃、参議中将藩主前田吉徳公が城中より大槻屋敷へ入らせられし時、この門より出入りしたという、その頃建てられし門と云い伝へていて、護国公年譜に、享保13年(1728)5月23日泉野辺へ御鷹野御帰りの節、大槻伝蔵朝元の庭御覧旨にて御立寄られ、その時、伝蔵130石、新番匠組並で御近習を勤め、居宅は仙石町にあります。

(金澤古蹟志・大槻伝蔵第地跡)

 

 

(大槻伝蔵の下屋敷跡)

 

大槻内蔵允下屋敷跡

大槻内蔵允下屋敷は、旧千日町の末犀川左岸、今の新橋の下に有ったらしく、寛保2年(1742123,300(人持組家禄3,000石以上が下屋敷を下賜)になり、翌3年(1743)下屋敷を賜わります。その下屋敷は8年後の宝暦元年(17512月に前田多宮長澄(前田平太夫長成の曾孫)の下屋敷になります。ちなみに、それ以前に描かれた「延宝の金沢図167381には前田多宮の祖父前田平太夫の下屋敷が見えます。

蛇足:幕末、安政の絵図には前田織江家(7000石・藩主一門)の下屋敷とあり!!

 

(大槻伝蔵の屋敷に有ったという五葉松・今護国神社)

 

大槻内蔵允下屋敷あれこれ

大槻伝蔵の下屋敷(周囲230間)は犀川の下千日町に申請け、家屋を建て、その家作の結構、誠に目をそばだてるもので、その内に築山を高く築き、城下眼下に見下す亭を建て、泉水築山の物数奇は更なり、珍木珍花は、京・大坂に名を得た樹木金銀をいとはず買い求め、泉水犀川堰き止河水を取込み、あたかも流潮の流れに等し、魚亀は淵に踊り鳥や雁は汀に鳴き、庭には真鍮の網を高さ丈1丈5尺、横20に張って、種々の名鳥を籠い驚かしめ、数多の美女を召抱え、その費用は万両という。

 

(今の新橋辺り・大槻伝蔵の下屋敷の辺り)

 

藩主吉徳公百万石の太守といえども、そのような奢りはなく、ある時藩主吉徳公を、この邸に招き、酒色をもって御心を轟かし奉らん伝蔵が計画。吉徳公にへの御駕を進めると、執政の大老前田土佐守直躬はじめ老臣、進み出で諌言して曰く、「君公内蔵允が亭へ御駕を抂(ま)げられんとの御事、実に御思召立の事ならば、かく申す土佐を初め執政・老臣等が宅へ先づ御入あって、その後に内蔵允が亭へ御駕を抂(ま)げらるべし。左なきに於ては、御先祖大納言利家公御草創以来、戦功をあらわし忠勤を働きたる譜代の諸士、何れの面目かあらん哉」と諌言。吉徳公もこの諌言を、もっともと思召され、しかし何の返答もなく、ついに内蔵が下屋敷へ入られる事は止みにける云々。

(金澤古蹟志・7編・城南石坂台17巻・P39

 

 

(幕末安政の絵図・屋敷跡と下屋敷跡)

 

延享4年(174712内蔵允没後、仙石町の屋敷と共に取り揚げられ、即日取り壊され明家敷となりますが、宝暦年間(17511764)その揚げ地の跡、川を前にして料理屋があったと古文書“混見摘写”に書かれていると金澤古蹟志に有ります。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢古蹟志」金澤文化協会 昭和8年8月十五日発行