加賀の一向一揆⑩尾山御坊の終焉 | 市民が見つける金沢再発見

加賀の一向一揆⑩尾山御坊の終焉

【金沢・鳥越】

本願寺には、約10年間に渡り織田信長も相当てこずり簡単には攻略が出来ないことを覚り、天正8年(1580朝廷を介しついに本願寺と和議を結びます。これで終っていれば、真宗も2つに割れることはなかったのに、その講和に不満の本願寺の一部分子が再戦を企て、11世顕如の長子12世教如がこれに加担し顕如と親子断絶となり、教如石山本願寺に篭城するが朝廷側の説得で明け渡すことになります。その直後に火が放たれ石山本願寺は灰儘と化しました。

 

(落日・イメージ)

 

(その後、後陽成天皇の提案により顕如から教如の義絶が赦免され教如も寺務に付きますが、石山合戦で篭城した強硬派穏健派の教団内で対立が起きます。織田信長の死後、豊臣秀吉の働きかけにも、強硬派が意義を唱え、秀吉の怒りを買い「今すぐ退隠せよ」の命が下り、本願寺は結果的に教如の弟准如が法灯を継ぎました。)

 

(石山本願寺・Wikipedia

 

当時、加賀から大坂の石山本願寺年貢を納入し、それが本願寺教団重要な財政基盤となっていました。 天正8年(1580)閏3月、約10年におよぶ石山本願寺との戦いを講和にもちこんだ織田信長は、本願寺の復活を極度に警戒し、その財政基盤であった加賀一向一揆を解体する必要を考え、北陸方面を任せていた柴田勝家に加賀への侵攻を命じます。

 

(佐久間盛政)

 

この時、柴田勝家軍は1万5千の兵を二手に分け、一隊は勝家自らが率いて海沿いの道をとり越前から宮腰(今の金石)から金屋砦(今の尾山神社)と西丁口(今の黒門口)を攻め、勝家の甥重臣佐久間盛政隊は山沿いに鶴来、四十万に至る道から寺町台、小立野台を越え石浦砦(今の本多町)田井砦(今の国立医療センター)山崎砦(今の久保市辺り)を猛攻、砦や寺内町を焼き払います。

 

(今の甚右衛門坂)

 

余談:今の橋場町にある枯木橋は、当時、山崎砦の樹林が焼き払われ枯れ木のようになった様からその場に架かる橋に名付けられたと云われています。また、現在の尾崎神社の隣の坂を甚右衛門坂と云うのは、この坂を守るため奮戦し、壮絶な討ち死にした一向一揆の武将平野甚右衛門の名前が今に伝わったもので、甚右衛門は犀川上流の鷹巣城の城主だったと云う。)

 

 

(甚右衛門坂の石標)

 

尾山御坊は、松永丹波が主将となり、富樫蔵人・鏑木右衛門・田屋大炊・堀才之助といった武将たちが指揮をとり、守りを固めていたが、彼らは、正面の柴田勝家隊のみに注意をはらい、佐久間盛政隊の存在に気付かず、背後から盛政隊が攻めかかったため、突然の攻撃にびっくりし、御坊内は大混乱におちいり、結局、この戦いで松永丹波以下、主だった者が討ち死にし、尾山御坊は陥落します。

 

(鳥越城・Wikipedia

 

普通の城であれば、城主が討ち死にし城が落ちれば、それで抵抗は終わりますが、一向一揆は別で、尾山御坊が陥落した後も、一向宗門徒たちは抵抗し、なかでも手取川峡谷の山内衆は、鳥越城を築いて柴田勝家を苦しめますが、いくたびかの攻防の末、天正10年(15823月、柴田軍団の佐久間盛政は、一向衆抵抗勢力を一掃し、一向一揆による加賀国支配は終焉となります。

 

 

このあと加賀国は、柴田勝家に任される形となり、佐久間盛政には信長から加賀国のうちの石川・河北2郡13万石が与えられています。石川・河北2郡の大名となった盛政は、尾山御坊を接収した後、若干手をいれ城として使用し金沢城と名付けます。盛政の在城期間はわずか4年足らずで、その後、盛政は天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いに敗れ死亡、金沢城の本格的な築城には至らなかったが、後に前田利家公が入城し、尾山城とし、さらに金沢城と改めています。

 

賤ヶ岳)

 

(一方、石山本願寺は、ご存じでしょうが、本能寺の変後、信長に代わって畿内の実権を握った羽柴秀吉と早急に和睦すると、秀吉は本願寺とその門徒が持つ経済力や技術力を利用して、石山本願寺の寺内町をもとに大坂城と城下町大坂を整備した。本願寺は天正13年(1585)に大坂郊外にある摂津中島(後の天満町)に移転して天満本願寺を建立します。ここはルイス・フロイスによると「秀吉の宮殿の前方にある孤立した低地」で、さらに「住居に壁をめぐらした堀を作る」ことを禁じられており、本願寺は豊臣政権の強い統制下に置かれていたことがわかります。)

 

(つづく)

 

参考文献:辰巳明著「消された城砦と金沢の原点を探る」清水隆久著「田辺次郎吉」神田千里「一向一揆と石山合戦」吉川弘文館平成19年発行 鏑木悠紀夫著「松任城と一向一揆」北國新聞社昭和6311月発行 鳥越城:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」