長町②明治なると村井家跡や長家跡は長町川岸に | 市民が見つける金沢再発見

長町②明治なると村井家跡や長家跡は長町川岸に

旧長町川岸】

長町は明治になると通称から正式な町名になります。明治4年(1871)村井家の家中町の一部を78番丁とし“長町1番丁から8番丁(藩政期は通称で16番丁)と鞍月用水沿いの「長町川岸」からなり、翌5年(1872)、大区小区制により金沢が7つの区に分かれてとき、五連区の長町1番丁~8番丁と長町川岸となりますが、区制は、明治22年(1889)に市制施行で正式な行政単位では区制が無くなりました。

 

 

(当時の市民の意識の中に生きづいていたのか、戦後、私が子供の頃にも、たま~にですが、訛って「三リンクとか五リンク」と言う人もいました。)

 

 

(香林坊下の鞍月用水)

 

“長町川岸”はその名の通り、武家屋敷の長町を流れる川岸の町立ですが、川は西外惣構の堀(鞍月用水)で、“長町川岸”は、香林坊橋あたりから長家跡(現金沢市立玉川図書館)の先、藩政期より約200m先の旧石屋小路入口(現玉川町の武蔵ヶ辻より)までの1,4km細長〜い町だったようです。 町名が付けられたのは明治4年(1871)で、昔の通称に配慮した長~い町の名と形態を残したものと思われらますが、悪名高い昭和40年代の金沢の町名変更で、今はこの町名も消えて、現在の長町は、長くも何ともなく、むしろ短かく、中央通り辺りから村井家跡(中央小学校)までになり長町1丁目~3丁目と変更されています。勿論、明治4年から昭和40年までは、村井家跡や長家跡の住所は”長町川岸“でした。

 

(赤い枠内が現在の長町1~3丁目)Googlemapより

(下記図の石屋小路交差点・ここまでが長町川岸)

(昭和2年の金沢地図より(池善書店発行)

 

(中央小学校・昔は村井家屋敷)

 

(武家地に付けられた“番丁”が消え、昔から町人町に付けられていた“丁目“で呼ばれるようになったのは、戦後の古いものは醜いものという風潮もあったのか、昨今の”町名復活“でよく言われている文化性に逆らうものようにも思います。)

 

参考ブログ

旧町名をさがす会《金澤編》長町川岸

https://cho0808.hatenablog.jp/entry/20160213/p1

 

この辺りの鞍月用水沿いは、平成に入り金沢の前市長山出保さんの尽力で用水が暗渠となっていた部分を開渠にして「せせらぎ通り」のネーミングで、近年はおしゃれなカフェや古本屋さんなどもオープンし、鞍月用水と大野庄用水との間に残っている武家屋敷跡と合わせ金沢観光の目玉として人気の観光スポットにもなっています。

 

(武家屋敷跡の案内板)

(旧長町川岸の右衛門橋(えもんばし))

 

拙ブログ

年寄“加賀八家”

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11601085661.html

 

 

村井家上屋敷跡

村井家は長家と同じく加賀八家に一つで、禄高は多い時で17,200石を賜っていますが、本来は16,500余りと伝えられています。初代長頼は13歳で利家公に仕え、数多くの合戦では利家公を支え、大刀打ちで敵首を獲るなど奮戦し戦功の限りを尽くし、利家公の又左衛門から「又」の字を賜り、又兵衛と改称します。芳春院(利家公の室於松)が人質として江戸に赴くと、お共として行き、そのまま江戸で没します。2代長次の室は利家公の7女千世姫(初め細川忠隆に嫁し離別)であったが子が無く、3代長家は加賀藩に仕えた織田有楽斉の次男長孝の次男で遺領を受けたのは10歳だったという。邸宅は慶長の金沢城図に、城内北ノ丸(権現堂)にあり、慶長17年(1612)頃、長町の邸地(7,000坪)を賜ります。その上屋敷には、北に馬場を設け、西には御荷川(大野庄用水)を取り込んだ大きな池のある庭があり、東北隅には大きな神社で、表門は西外惣構の堀(鞍月用水)の四ッ屋橋に面していたと資料に有ります。上屋敷の裏を流れる御荷川(大野庄用水)裏には、下屋敷(家中町)並んでいて陪臣は389人という記録もあります。村井家はその後、廃藩まで11代を数えますが、屋敷を壊し退去したと云う。

 

 (金沢城内北ノ丸にあった村井屋敷)

(左側が村井家の屋敷跡・右側が長家の屋敷跡)

 

その屋敷跡に明治7年(1874)、長谷川準也(後の2代目金沢市長)と弟の大塚志良らが設立した私営の金澤製糸会社が開設されます。元々は士族授産の一環で、官営工場の富岡製糸場を模範として、当時は富岡製糸場に次ぐ全国第二の規模でした。鞍月用水で水車を回しその動力を利用し、半木製の折衷式繰糸機が100台、女工約200人で営業を始めます。明治11年(1878)、北陸巡幸で金沢を行幸した明治天皇は金澤製糸場を始めとして、長谷川準也が設立した3社(撚糸会社・銅器会社)を視察し、100を下賜したという。しかし、金沢製糸場の生糸は、綺麗で節がなく繊度も揃っていたが、細すぎて当時のアメリカでは時流に合わなかったらしく、経営の失敗もありわずか数年で解散しますが、石川県の殖産興業の先駆けとなりました。

 

(金澤製糸場)

 

(金澤製糸場の繰糸機を製作したのが尾山神社神門の設計者津田吉之助で、その子津田米次郎は織機の機械化に取り組み、明治33年(1900)に国内初の動力式絹力織機を発明します。)

 

拙ブロブ

金沢製糸場《鞍月用水⑤》

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11826524545.html

 

 

その後、金澤製糸場から倉庫精練(株)に移り、昭和62年(19874月に市内の中心部にあった松ヶ枝、芳斎、長土塀、長町の4校の児童数が減少で統合され今の中央小学校になります。

 

 

屋漏堂(おくろうどう)伝説:延宝6年(1678)禄高1,000石の馬廻組佐々主殿は、借財が多く邸宅は破損にまかせて雨が降れば屋内では傘を用いる始末で、さらに行いに非があったとして、5代綱紀公より村井家で切腹を命ぜられました。後日、土蔵を検分したところ、武具類と軍用金が立派に用意されて有ったことから、世間では賞賛され、当時の村井氏当主長道は深く尊敬の念を感じ、その蔵書印の「屋漏堂」を用いていたという。

 

(つづく)

 

参考文献::「金澤古蹟志8巻」森田柿園著 金沢文化協会 「歴史散歩・長町周辺と武家屋敷」奥野賢太郎著 金沢観光ボランティアイド「まいどさん」ガイド資料