藩政期の金沢片町②昔の大店(おおだな)!! | 市民が見つける金沢再発見

藩政期の金沢片町②昔の大店(おおだな)!!

【金沢片町】

文化8年(1811)の金沢町名帳の片町の項によると、当時、御用町人の町尾張町には後塵を拝していましたが、片町は家数61軒の本町で町年寄が2家、他にも町役人で兼業の家が3家、肝煎手伝、組合頭や蔵宿・御手判問屋等御用と云われる藩に関わる家が8軒もあり、町年寄宮竹純蔵家倅伊右衛門の名前で薬種商売香林坊兵助家倅茂吉郎の名前で質商を、変ったところでは加賀宝生の地謡役者、脇方役者と兼業の2軒、今回、紹介する堂後屋は葉茶屋さんとして健在で、他、後家さんの仕立屋2軒等などが軒を連ねています。(金沢町絵図帳に図面がありません。)

 

 

(現在の片町から香林坊方面)

 

金沢の町年寄:藩政初期(寛永期~承応期)の町年寄の名前は明らかではありませんが、慶安4年(16514月には、名前が明らかになり、一番組10人と2番組10人の20人が任命されています。以後、寛文9年(1669)には10となり、この町年寄は、これといった商いを持たず、藩主の要請で必要とする物資を調達する町人で、藩主と関係の深い職人と商人でした。延宝6年(1678には町年寄4となり、元禄4年(1691には町年寄3となり、喜多村彦右衛門、平野屋半助、紙屋庄三郎が任命され、いずれも藩主と関係の深い御用町人であるが、町年寄になる家柄はほぼこの頃より定着したものと思われます。しかし、慶安期を最後に国内が泰平になると、藩主の要請に応じ物資を調達する請負御用町人から、積極的に領内外から商品を集め、城下の武士・町人にがあらわれ、延宝6年(1678には、町年寄4になり、元禄4年(1691には町年寄3になりました。幕末まで長く町年寄を勤めたのは、香林坊三郎右衛門、平野半助、中屋彦十郎をはじめ、宮竹屋伊右衛門、本吉屋宗右衛門、金屋彦四郎浅野屋次郎兵衛等の子孫でした。(詳しくは:田中喜男「金沢町人の世界」)

 

拙ブログ

広坂通りから香林坊①香林坊の由来・・・

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12393298531.html

 

堂後屋三郎右衛門(どしりや)

堂後屋は、片町草創以来の旧家にて、数代居住し、初め銀座役で、後には名高き若茶の店でしたが、嘉永の頃についに家屋を売却して退去したという。その家は、今は有りませんが、片町の西側林屋(木倉町入口辺り)と呼ぶ茶店だと金沢古蹟志に書かれていります

 

堂後屋三郎右衛門は、能登宇出津の船問屋の次男で、天正 10(1582)、金沢に出て開業した。当初、米町?なる地所に店を構えたが、後に片町の権七ヶ辻在(現在の竪町通りの片町側入口)の向かいに移り、おたま団子で評判を取ります。「金沢古蹟志」によると、慶長13年(1608)堂後屋は2代藩主利長公より御判書ならびに紋付、帷子を賜り、町役を仰せつけられており、母まつ(芳春院)も恐らくおたま団子を好んで口にしていたものと思われます。

 

「おたま団子食うて、新七茶飲め、そばの願念寺で後生願え」

 

という童唄が明治末まで金沢で歌われていたらしく、茶屋新七おたま団子の堂後屋の筋向かいの葉茶屋で、元禄の頃、俳句の松尾芭蕉新七の一周忌に訪れた野町の願念寺は、その頃まではこの界隈にあり、この歌詞から金沢城下の名物事情が窺えます。

 

 

(現在の野町願念寺)

 

拙ブログ

金沢の「奥の細道」②犀川辺り(その二)

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11539467206.html

 

おたま団子は、黒あんよりも格上とされていた白あんを餅で包み、上にきな粉をまぶしたもので、 当時は2個刺しでしたが、通貨の変遷に合わせる格好で団子が5個刺しになったのは万治・寛文年間(16581673)で、四文銭が登場した明和年間(17641772)には、

4個刺したと云われています。

 

(実際、金沢の菓子作りがいつから始まったのかということについては、さまざまな説があります。最も古いものは、天正18年(1590)利家公が入府します。その頃は、城の周囲に菓子屋はなく、そこで、当時の御用菓子処だった堂後屋三郎衛門が、片町に1600坪の邸宅を拝領し、餅菓子店を始めたという説があり、金沢和菓子の元祖と言われています。利長公の時代に、藩の御用菓子師だった樫田吉蔵が五色生菓子を考案し、慶長5年(1600)、珠姫(天徳院)が金沢へお輿入れの際、五色生菓子を収めたのがルーツとされています。寛永7年(1630)頃、利常公が越中井波から菓子師を呼び、香林坊で加賀落雁を作らせたのが始まりともされています。寛永2年(1625)尾張町で創業した森下屋八左衛門が利常公の創意により、小堀遠州の書いた「長生殿」という文字を墨型の落雁にして創製したことが最初であるとも考えられています。「長生殿」は現在でも作られていて、金沢を代表する和菓子の一つです。)

 

(現在の竪町入口(権七の辻・この向にあったという堂後屋)

 

権七ケ辻(現竪町入り口)

片町より竪町へ入る四ツ辻で、昔は権七ヶ辻と呼びました。酢屋の権七といふもの此の辻辺りに居住し、それゆえ権七ヶ辻と呼んだという。後に呼び誤り“五七ヶ辻”と称したと呼ばれた時期もあり、今はその称も絶えて、世人知るものなしと明治の「金澤古蹟志」に書かれています。

 

(恒例の「百万石まつり」で珠姫をお慰みする酢屋権七)

 

酢屋権七伝:三壺聞記に、慶長10年(16057月、徳川二代将軍秀忠公の姫君「珠姫」が、まだ幼少でしたが、利光卿(後の利常公)へ御縁組で、金沢へ御入與、道中の御慰みとて、酢屋の権七は銀の立烏帽子に朱の丸付けて、直垂の装束にて御輿の先に頭をふり狂言を舞い、その聞には小歌の上手につれ歌をうたわせ、諸芸をつくし、金沢へ入らせたという。慶長69月の事で、村井長明の象賢紀略に、関ヶ原合戦の翌年9月、江戸より姫君様、金沢へ御輿入、御供大久保相模殿・青山常陸殿・鵜殿兵庫・青山善左衛門、その外少身衆多し。とあり。また、関屋政春の古兵談に、元和7年(1621525日筑前守様(後の利常公)御7歳にて金沢御護駕、初めて江戸御下向、首尾よく御目見等相済み、すべて御暇被レ進、同75日に金沢の御着きになられ、この御上下に酢屋の権七、素抱立烏暢子にて御道中狂言仕り、御機嫌を伺った。等等、逸話が多い酢屋権七は、金澤狂言師の鼻組といわれ、金沢墓誌には、天和元年(168111月に没したとあり長生きなり?野田山に墓所があります。その子孫も酢屋権七と称し、天保・弘化の頃は町会所の肝煎役を勤めたと伝えられています。しかし、文化8年(1811)の金沢町名帳の片町の記述には見当たれません?

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 

「加能郷土辞彙」著者日置謙  金沢文化協会出版 昭和17年発行 

「金沢町人の世界」田中喜男著 発行所国書刊行者 昭和637月発行

おたま団子-諸江屋

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