大正12年(1923)9月関東大震災②と米沢弘安日記 | 市民が見つける金沢再発見

大正12年(1923)9月関東大震災②と米沢弘安日記

【金沢~東京】

米沢弘安は、謡曲や仕事柄茶道にも造詣が深い教養人で、また、旺盛な好奇心と暮らし向きにも余裕があり、当時、地元の地方紙北国新聞全国紙報知新聞を購読し、新聞を読んだ後は近隣に回覧しています。

(報知新聞は、明治5年(1872)創刊の郵便報知新聞が明治28 年(1895)に改題されたもので、明治末期から大正期を通じて東京で第一位の部数を誇っていた。以後、戦時下に行われた新聞統合により、昭和17年(1942)、讀賣新聞に合併します。)

 

(大正12年9月1日の米沢弘安日記)

 

関東大震災について

大正12年(192391115832秒ごろに発生した関東大地震は、南関東および隣接地大きな被害をもたらした地震災害で、神奈川県および東京府を中心に隣接する茨城県・千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらしました。被害は、190万人が被災、105,000あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されています。建物被害においては全壊が約109,000棟、全焼が約212,000棟で、東京の火災被害が中心に報じられていますが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。報道は、社屋が焼失しなかった東京日々新聞92付の見出しに「東京全市火の海に化す」「日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万」「電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶」といった凄惨なもので、93付では「横浜市は全滅 死傷数万」「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」などという見出しが躍っています。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=3&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiKuJrYsYbkAhVbPnAKHYvtDYkQFjACegQIARAB&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E9%2596%25A2%25E6%259D%25B1%25E5%25A4%25A7%25E9%259C%2587%25E7%2581%25BD&usg=AOvVaw1kR-_jn58Z5T_j1xh-qvft

 

四日 火 曇り 日記は()関東大震災記事のみとします。

毎日帝都の震災惨報の話にて持切り、寄るとこの話 又、聞けば益々惨状甚だしく、今日の3時頃、向の泉屋様へ四高生二名、東京より逃て帰って来られ其の話を聞く 横濱のグランドニ数万のヒ難民あり 猛火の為、千名計助かったが残りはザン死せりと 其学生ハ墨田川へ飛込み、折りよくボートを見付て乗り、手でカイをつかひ、向島付近に来ると(其間八時間かかったと)不逞鮮人が出て、陸の方ニ軍隊や青年團、在郷軍人團等と衝突したと 学生君の舟へもやって来たが、二人程殺して漸(ようや)く上陸し、川口驛迄逃れて汽車ニ乗ったと 躰中、傷かついて居た 其後の焼失大建築物二重橋、陸軍材料本部、鍋島侯爵邸、伊太利大使館、佛国大使館、華頂宮、伏見宮邸、水交社等 華頂宮横須賀第一トンネルに於いて土砂崩壊の為薨去される(后、誤報判明)

 

(皇居の二重橋)

 

(註:筆者は直接に震災の話を聞いた記事が載っています。東京から体中に傷を負い逃げ帰った第四高校生の話です。さらりと書いていますが、“不逞鮮人を2人程殺した”くだりは、只事ではありません。詳細は不明で気になります。少し当時の事を書いた記述を調べてみます。)

 

関東大震災では、被災した住民らの間に「朝鮮人が暴動を起こしている」「朝鮮人が井戸に毒を投入した」などのデマが広まり、東京とその周辺で朝鮮人らが殺害されています。政府も戒厳令を発令し、デマを信じた市民による自警団や軍隊が朝鮮人や中国人、社会主義者らを殺傷した。全国で6千人余りが犠牲になったとの説もありますが、はっきりしません。

 

日本の治安当局の対応:治安当局は「朝鮮人暴動」の可能性を危惧していたため、混乱の収拾と秩序回復の理由として自警団の殺人行為を袖手傍観(しゅうしゅぼうかん)し、一部は加担したり助長したりした。自警団から朝鮮人・中国人数百名を守った大川常吉神奈川警察署鶴見分署長のように暴徒への取り締まりならびに死傷者を伴う暴徒との衝突や、横浜の朝鮮人226923日不入斗練兵場陸軍砲廠で保護収容し臨時治療所を開設する等の動きもあった 。その後、自警団の行為が公権力を脅すほどになって治安当局は介入し始めたが、もう多くの朝鮮人や内地人、外国人が殺された後だった。自警団は朝鮮人を殺害し、密葬した。日本政府は最終的に噂を公式的に確認したが、加害者の数を縮小したり、一部の自警団員に証拠不十分で無罪を宣告した。この噂による殺害事件で司法的な責任、または道義的な責任などを負った人や機構は全くなかった。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

関東大震災後の混乱を受けて緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)が公布されます。その後、悪名高い治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止されます。これは、飴と鞭といわれた男子普通選挙法と同時期に公布され、以後、昭和の恐慌、満州事変、515事件、226事件から第2次世界大戦そして敗戦に繋がっていきます。歴史は繰り返すといいますが、2011/3/11の東日本大震災以後、何か国の様子がおかしい、もしや?・・・歴史を繰り返さない事を祈るばがりです。

 

浅草12階半壊(凌雲閣)Wikipedia)

 

五日 水 大雨後曇り 日記の()関東大震災記事のみとします。

東京の大惨害の眞相ハ、新聞社より特派員を出したる為、漸次知れる 四日午前二時東京の大火は全く鎮火せり 東京市焼失區域、日本橋全區、京橋数軒丈け残す 本所區全區、深川は古市場市営住宅丈け残す 浅草八分通り、下谷同上、神田和泉町僅かに残る 芝は七分通り、麹町四分通り、四谷、本郷、赤坂全焼でないが被害甚大、被害を免れてのは小石川区、麻布区、牛込区 焼失戸数約三十万戸、負傷十万(二日午前十時調)地震の回数一日正午より二日前六時迄ニ二百六十五回、二日前六時より三日前六時迄三百四十七回、震災は国府津、大磯、横須賀最も多し 金沢六旅団に出動令下り第七第三十六の両聯隊本日東上

 

(当時の金沢)

 

六日 木 晴 日記の()関東大震災記事のみとします。

東京横濱の惨害は漸次、詳細ニ報道さるゝが横須賀ハ判明せない

(註:横須賀は、姉かの(四十万恒二郎妻)の嫁ぎ先で、四十万家の安否を気遣っています。)

七日 金 晴 日記の()関東大震災記事のみとします。

東京ハ今では静ニ返った由 罹災者の電信を受付開始せるニ、六日ニは二十二万六千六百餘受付たりと 新聞ニ写真續々乗す

八日 土 晴 日記の()関東大震災記事のみとします。

東京へは絶対ニ人を入れない 公用を帯るもの等の他

九日 日 晴 日記の()関東大震災記事のみとします。

◎東京市ハ着々秩序回復し、山手ハ電燈もともり電車も動きだした 屍体は其場で焼却するが、尠(すな)くも四万四五千を下るまいとの事 ◎東京罹災戸口、罹災戸数三十一万六千八七戸、罹災人口百三十五万三百九十一ニ對する罹災割合は、全戸数四十四万五百四十九に對し七割一分強、全人口二百三万三百九十一に對し六割七分といふことになって居る

 

震災直後の被服廠跡地の避難民Wikipedia)

 

十三日 月 晴 日記の()関東大震災記事のみとします。

大詔降下(十二日)遷都説打消さる

(註:震災直後には、参謀本部では周期的に大地震が発生するおそれがある東京からの遷都が検討され、当時、参謀本部員だった今村均は第一候補を京城近郊の竜山、第2加古川、やむを得ぬときは東京の八王子を候補地として報告したと述懐しています。しかし、震災発生から11日後の912日には、未曽有の混乱のなかでの遷都論は、人心の動揺をもたらすという意見から陸軍の検討案は立ち消えとなり、東京を引き続き首都として復興を行う旨を宣した詔書が発せられます。)

 

以後、9月の日記には、関東大震災関連の記事は見られなくなります。

 

(大正12年の項おわり)

 

参考文献:参考文献:「米沢弘安日記・上・中・下巻・別巻」編集米沢弘安日記編纂委員会 金沢市教育委員会・平成153月発行・関東大震災 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか

金沢市史年表 金沢100年大正昭和編 金沢市図書館

https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_t.htm