本多町。大乗寺坂と幻の大乗寺 | 市民が見つける金沢再発見

本多町。大乗寺坂と幻の大乗寺

【本多町・大乗寺坂】

大乗寺坂は、本多町から小立野台の本多の森ホール辺りに上る坂道です。道幅は狭く、階段になっていて車は通れませんが、階段の脇には狭いながらも段のないスロープがあり、自転車も通ることができます。いつも私は、坂が急で幅が狭いので自転車を降りて押してと云うより引っ張って下ります。 坂は、地形の影響か、小さい曲りが幾つかあり木々も多く、昔程ではないが、うっそうとした感じもあり、坂の途中にちょっとひと休み出来る場所もあり、坂として魅力が多く、坂の上には本多の森ホール、NTT北陸学院中高県立歴史博物館、加賀本多博物館や県立美術館。下には県立工業高遊学館高鈴木大拙館と意外に通る人もあり、通学に生活に利用者が多い坂道です。坂の名前の由来ですが、坂の上り口付近に、今回のテーマである幻に寺院大乗寺があったことによります。

 

 

(大乗寺坂より県境の山々と坂の休憩所)

 

曹洞宗東香山大乗寺は、弘長3年(1263冨樫家尚が野市(現在の野々市市)に真言宗の澄海を招聘して創建したといいます。後に禅寺に転じ、弘安6年(1283)、曹洞宗の徹通義介を招聘して開山としたと云われています。乾元元年(1302)、瑩山紹瑾2世住持となり、応長元年(1311)、臨済僧である恭翁運良が瑩山の後を継ぎます。その後、時代は下り前田利長公の家臣加藤重廉が檀越となり、寺は木ノ新保(現在の金沢市本町)に移転します。さらに、江戸時代初期には 加賀藩家老本多家の菩提寺となり本多町に移転します。寛文11年(1671)には中興の祖とされる月舟宗胡が住持となり、次代の卍山道白(延宝8年(1680)住持となる)とともに寺の復興に努め、寺が現在地(野田の大乗寺山に移転したのは元禄10年(1697)のことです。当時の住持は、その前年に就任した明州珠心で、 寛延3年(1750逆水洞流が住職に就任し、次いで、一入覚心が住職に就任します。明治時代初期には廃仏毀釈で一時衰退しますが、昭和50年代(19751984)、板橋興宗が住職に就任。平成13年(2001)には駒沢女子大学学長を務めた東隆眞が住職に就任しました。

 

 

(この辺りに大乗寺の参道が有ったのでしょう)

(この間今は私道です)

(坂の登り口の大乗寺旧跡を示す石標)

 

参考ブログ

東香山大乗寺

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=4&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjd1JGgv7bhAhWDxIsBHSmGAFsQFjADegQIBBAC&url=http%3A%2F%2Fwww.daijoji.or.jp%2F&usg=AOvVaw1imWTL5w2ginwDnK5CuR0F

 

(休憩所から県境の山並みが見える)

 

拙ブログ

本多播磨守暗殺事件と仇討ち⑤最後の仇討ち

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12345277306.html

 

≪森田柿園の「金澤古蹟志」には≫

大乗寺門前地跡

延宝の金澤図に下のように載っています。この図で見るように、大乗寺坂の麓の道路脇の上に大乗寺門前地があり、ここに町屋がありました。元禄年中(1697)大乗寺は石川郡寺地山へ移転した後、旧寺屋敷とともに門前地も揚地となりました。(読み下し文)

 

(延宝の金澤図より・大乗寺坂と大乗寺。33間×51間3尺×30間×50間)

 

大乗寺旧地(要旨)

大乗寺は元真言宗で、冨樫家尚が石川郡野市(現野々市市)に創立。弘安6年(1283)、曹洞宗の徹通義介を招聘して開山したといわれています。元亨3年(1321)の洞谷山置文に、大乗寺は先師開法の加州第一の貴寺。とあり、禅刹開法の旧地と云われていますが長享2年(1488)に冨樫氏の滅亡後、国乱の際、度々兵火にあい、寺地は所々に転じます。それゆえ旧記は散逸して詳しい事は分からなとあります。津田鳳卿石川訪古游記に、天正の初め柴田勝家に野市(現野々市市)が焼かれ寺は廃寺となり、その後、慶長の初め前田利長公の家臣加藤重廉が檀越となり、寺は木新保(現在の金沢市本町)に移転し、さらに、江戸時代初期には 加賀藩家老本多家の菩提寺となり、笠舞領(現在の金沢市本多町)に移転したとあり、この地は境内が狭くて、今の野田の寺地山(現大乗寺山)へ移り、跡地2000歩は空地になり大乗寺屋敷と云われます。本多家下邸と地継のため、普請会所に再三申し立てるが埒が明かず、宝暦10年(1760)金沢の大火の後、本多家の牛右衛門橋口の方が揚地になり、代わりの地に請け入れを申し込み、藩に聞き届けられ、本多家に下邸となりました。(読み下し文)

 

津田鳳卿:江戸時代後期の武士。安永8年(1779)生まれ。加賀金沢藩士。藩校明倫堂の助教、書物奉行、南土蔵奉行、馬廻頭などを勤めた。古文書を収集して「汲古合編」を編集した。弘化4年(1847423日死去。69歳。字(あざな)は邦儀。通称は亮之助。号は梧崗(ごこう)。著作に「韓非子解詁(かいこ)全書」など。

 

 

(大乗寺坂の石標)

(坂の中ほど)

 

参考ブログ

大乗寺は見つめる富樫に復権-舘残翁と浅香年木‐金沢の坂道

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjSra-P3rXhAhVR7mEKHU7dDX4QFjAAegQIABAB&url=https%3A%2F%2Fkanazawasaka.com%2Fcolumn%2Fdaijyojizaka.html&usg=AOvVaw3LdoG90lBes8mLq2rrgxhE

書いた人、壺中人ペンネーム・こちゅうじん)

 

(大乗寺坂下より見上げる)

(小さな地蔵さんとご詠歌が彫られた石碑)

 

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明治に入り小立野の出羽町に陸軍の練兵場が出来ると、大乗寺坂の上にあった瑞雲寺が小立野台の百々女木(現宝町)宝円寺の隣に移転し、その瑞雲寺の土地も大乗寺坂も練兵場内に取り込まれ、公道としての大乗寺坂はいったん姿を消します。戦後数年して、練兵場が払い下げられた際、一部が電々公社に吸収されていたと聞きますが、後に金沢市がこの坂を復活させました。130段の階段とスロープが併用された歩行者専用で、私事ですが昭和30年代、通学のため毎日通ったことが思い出されます。上の小立野台には、その頃まで国立病院の看護婦学校の木造の校舎が残っていました。その跡に現在のNTT金沢が建てられますが、坂上から下ると、初春の晴れた日には左手に富山県境の山々に残雪が見え今も変わらず美しい、ここの景色は春先だけではなく今も四季を通してお気に入りで私の散歩コースの一つになっています。

 

(山道のような長谷院の参道)

 

今も坂の途中の右側に瑞雲寺の塔頭だった長谷院の小さな何体かの地蔵さんとご詠歌が彫られた石柱があります。お寺に繋がる山道のような参道になっています。通学中には入ったことも無かったのですが、数年前に入ると途中に民家があり、奥に行くとお坊さんお墓が数基あり、本堂の跡には草むらの空き地があるだけでした。

 

(坂の下にある案内板)

 

参考文献:「金沢古蹟志」第512巻 森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 新竪町公民館創立50周年記念誌「しんたて」新竪町公民館 平成153月発行 ウィキペディアフリー百科事典など