作庭記と兼六園ー上ー① | 市民が見つける金沢再発見

作庭記と兼六園ー上ー①

【兼六園・十間町】

何年か前に「兼六園全史」“第三節 兼六園と作庭記“に触れ、その写本が金沢の古美術商谷庄さんの所蔵だと言うことを知り、一度調べてみたいと思っていまいしたが、なかなか神輿が上がらず、また、文章だけの記述は読んでいてもチンプンカンプン。私には、手に負えないモノだと思い込んでいました。

 

(兼六園霞ヶ池)

 

最近、兼六園全史を調べる機会があり、またまた“第三節 兼六園と作庭記“に引っかかり読んでいると、一部ですが各章に書かれている内容は、兼六園の実景と合わせて述べられ写真も添えてあるのを見て、これを参考にすれば、私にも時間を掛ければ出来そうに思へて取り組んでみる気になりました。一回目の今回は、「作庭記」の概要最古の写本がある金沢の古美術商谷庄さんに付いて記すことにします。

 

(兼六園全史の作庭記)

(兼六園雪づり)

 

≪作庭記の概要≫

「作庭記」は、平安時代に寝殿造の庭園に関することが書かれた日本最古の庭園書で、「作庭記」の名称では江戸時代中期に塙保己一の編纂した「群書類従」に収められているそうです。それ以前は「前栽秘抄」と呼ばれ、まとまった作庭書としては世界最古のものと言われています。

 

(「前栽秘抄」:作庭記という題名は江戸時代からで,塙保己一が集輯した「群書類従」に収録(362)されて広く知られるようになったと言われています。最古の写本とされる金沢市の谷村家本(2巻,重要文化財)にも表題はなく、古くは「前栽秘抄(せんざいひしよう)」と呼ばれ、関白藤原頼通の庶子で修理大夫となり,伏見の自邸が名園で知られた橘俊綱(10281094)が、若年より頼通の邸宅高陽院(かやのいん)をはじめ,多くの貴族の作庭を見聞し,かつ自らの体験をもとに、当時の口伝等をまとめた記録より編集したものだそうです。)

 

 

(噴水)

 

その内容は意匠と施工法であるが図は全く無く、すべて文章で、編者や編纂時期については諸説ありますが、橘俊綱であるとする説が定説となっており11世紀後半に成立したものと見られています。最も古い谷庄さんの写本には、奥書に「正応第二(1289)」と書かれているそうです。

 

正応第二は正応2年。弘安の後、永仁の前。正応元年(1288)から正応6年(1292)までの期間。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。)

 

 

「作庭記」の特徴は、当時、王朝の住宅建築様式の土地の在りようにあたって、もっとも重視された四神相応観が庭作りの上でも重要視されており、さらに陰陽五行説に基づいたもので、王朝の住宅建築様式である寝殿造りを前提として説明されています。

 

(兼六園以前の竹澤御殿平面図)

 

内容は、前半において立石の概要に始まり、島・池・河などの様々について論じ、滝を立てる次第、遣水の次第を詳述しています。後半においては立石の口伝に始まり、その禁忌を具体的に書かれ、樹、泉について述べられ、最後に雑部として楼閣に触れています。そのような特徴を持つ「作庭記」は、造園史家の中でも最もよく研究されている作庭書です。

 

橘俊綱:摂政・関白・太政大臣を務めた藤原頼通の次男として生まれますが、頼通の正室・隆姫女王の嫉妬心のために讃岐守・橘俊遠の養子とされ、摂関家の子弟にもかかわらず、修理大夫や尾張守などの地方官を歴任。位階は正四位上にとどまります。造園に造詣が深く、日本最古の庭園書である「作庭記」の著者とされています。巨椋池を一望にする景勝地指月の丘(現在の桃山丘陵の南麓)に造営された伏見山荘は、俊綱自ら造園を行い「風流勝他、水石幽奇也」と賞賛されています。

 

≪金沢の古美術商谷庄さん≫

初代庄平は、加賀八家長大隈守に仕えた武士で、加越能文庫にある谷村家の由緒書によると7代目が庄兵衛で、明治維新後、庄平と改名したそうです。道具屋を始め、明治16年(1883)柳町(現在の本町2丁目)に店を構え、当時、武家よりたくさんの道具が売りに出され、連日の如く競り市が開かれ、多忙を極めたといいます。

 

(谷庄さん)

 

初代は、長州征伐や北越戦争に従軍した武人らしく、身体はたくましく士魂を捨て切れなかった人だと伝えられていたそうです。維新後は商運に恵まれ、店は順調に発展し、柳町から安江町、東別院隣の横安江町へ移ります。2代目庄平の時、昭和2年(1927)の彦三大火に罹災し、現在の十間町は、大和田銀行(現福井銀行)金沢支店が博労町に移るまでいた跡地だそうです。昭和37年(1962)に東京・銀座に東京店を、金沢の店舗は和洋並立の店舗兼住宅として、国登録有形文化財(建造物)に指定されています。

 

(今もある谷庄の茶室は裏千家今日庵の閑雲亭を倣ったものだそうで、襖には旧小松城にあった狩野探幽筆飲中八仙の絵襖が用いられていて、細野燕台(金沢出身の漢学者)が松永安左エ門(電力王)と小林一三(東急創設者)の両茶伯を伴い来訪した時、松永氏がこれを所望したところ、小林翁から窘められて思い止まったという逸話が残っているらしい・・・。)

 

(十間町の谷庄さん)

 

25代目は、大正7年( 191810月創立の(株)金沢美術倶楽部の社長も務め、美術業界の発展にも大きく貢献。茶道隆茗会の代表理事、淡交会石川支部の顧問、大師会、光悦会などの全国的な大茶会の世話人を務めるなど、茶道文化の発展にも尽力されました。当代は6代目谷村庄太郎氏で、平成22年(2010)より代表取締役に就任し、古美術商として、また、茶道文化の発展にご活躍です。

 

谷庄さんは、商売柄とはいえ、その所蔵する名宝は多く、上記「作庭記」の他重要文化財に指定をうける五十嵐道甫作と伝えられる「秋野蒔絵硯箱」が所蔵されているそうです。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢の老舗」本岡三郎監修 昭和466月北国出版社発行 「兼六園全史」

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