小立野の旧土取場 | 市民が見つける金沢再発見

小立野の旧土取場

【石引1丁目・宝町】

「土取場 つちとりばという珍しい町名は、藩政初期、この辺りの土が城や城下の開発のために活用されたことから“土取場”と言われたといいます。慶長4年(1599)金沢城の内惣構と慶長15年(1610)に外惣構を穿った時、両岸の盛り土が不足し、その土を小立野のこの地の土を運び盛り土としたといわれています。明治の郷土史家森田柿園の金澤古蹟志によると、今(明治)、この盛り土を知らべて見ると、皆小立野の土だそうで、また古老の伝説によると、犀川川除町の川除の堤防は、本多安房守政重の頃に築かれたもので、この土も小立野の土だといわれています。

 

 

 (土取場の標柱)

 

伝説によると、土取場の土地は慶長の頃、荒地で人家もなく小高い山路で、万治(1658~1659)年間にはその土を使い瓦の製造をした瓦小屋があり瓦土取場と言われていたらしい、寛文4年(1664)頃には瓦小屋跡が畠になっています。畠地の隣、辰巳用水の分流を挟んだ田井村の村地が寛文5年(1665)に藩の命により与力町になり、その頃、土取場にも家屋が建ち町地となりました。それ以後、瓦土取場と呼ばれていたのが、土取場というようになったそうです。以後“土取場”は、地元の人は親しみを込めて、「ツットリバ」と呼びました。町がなくなった今も古老はそういいます。

 

(安政期の土取場地図)

 

元禄9年(1696)「片岡孫作筆録」に「経王寺近所土取場」が地子町として見えるとあり、文化8年(1811)の家数は187軒で、組合頭瀬木屋甚右衛門組92軒(武家41)同福久屋豊右衛門組95軒(武家45軒)肝煎は孫兵衛。町人の職業は稼ぎが54軒と多く、他には苧絈、大工、石伐などだったといいます。

 

 (金沢大学医薬保健学域の門辺りと旧土取場)

 

文政6年(1823)から明治4年まで土取場を冠する町が8町あり、明治4年(1871)から合併して3町(土取場永町、屏風小路、間の町)が合併し土取場永町(79軒)になり、土取場城端町、一の小路、二の小路、三の小路の4町が合併し土取場城端町(41軒)土取場撞木町(51軒)は、経王寺門前の一部(7軒)を合併します。

 

 

 (旧経王寺門前)

 

明治38年(1905)に、与力町が金沢病院に、明治43年(1910)金沢医学専門学校敷地に土取場の町地の約半分が収用され、明治45年に移転します。そして、昭和39年(1964)には「土取場」の町名が町名変更で石引1丁目になり消えてしまします。

 

(藩政時代の町名:土取場永町(永順寺)、土取場城端町(城端の善徳寺掛所)、土取場屏風小路、土取場一の小路、土取場二の小路、土取場三の小路、土取場間の町、土取場撞木町)

 

(旧土取場の地図・鼠色のところが現在金沢大学)

 

(現在の経王寺)

 

≪隣町経王寺門前≫

此の地は・延宝の地図に経王寺分とありて、経王寺の門前地たり。改作所旧記に載せたる元禄六年十二月の舎付にも、経王寺前とあります。門前地は某寺前と呼なれたが、明治廃藩後、門前地は全てなくなり、経王寺門前は、明治より下鶴間町と呼ばれ、現在は旧土取場と同じ石引一丁目です。現在の町内会は「下鶴間町会」で、因みに旧土取場の町内会は「鳳正会」といいます。

 

 

 (金沢大学医薬保健学域の門辺り)

 

P.S

十数年前、古文書の先生に、小立野を史跡散歩に付いていったら、金沢大学の医薬保健学域の門の前で、土取場の説明が始まりました。何でも、明治43年(1909)からの金沢医専の開設工事で、この辺りを掘り起こした時、戸室石がゴロゴロ出て来たと伝えられていて、それを聞いた時、もしかして?と思ったそうです。50万年前、ここから約10km先の戸室山が爆発した時、この辺りまで火山岩が飛んで来たのではと思ったそうです。果たして火山岩が10kmも?と思いつつ、さらに想像を膨らませると、藩政初期、金沢城の石垣はここからお城に運んだのでは?と思ったそうです。

 

 

 (戸室山)

 

いずれにしても、古文書に有るわけもなく、根拠のない話だと思いますが、ずぅ~と頭の隅に残っていて、今も土取場辺りを散歩するたびに思いだします。

 

 

(金沢城の石垣)

 

戸室山:標高547.8m。50万年前に活動した火山により形成され、角閃(かくせん)石安山岩の山で、赤と青の両色の戸室石を産し、加賀藩は金沢城の石垣、兼六園の庭石、辰巳用水の石管などに用いました。

 

参考文献:「金澤古蹟志 第4編」森田柿園著 金澤文化協會 昭和89月発行