小説「西郷の首」③加賀っぽの燃える情熱!! | 市民が見つける金沢再発見

小説「西郷の首」③加賀っぽの燃える情熱!!

【金沢・東京・名古屋・鹿児島】

先が見えない金沢藩では、明治元年(18689月に藩政改革が行われ、左幕派の執政筆頭本多政均を据え置かれます。第3「気焔万丈」では、明治2年(1869)の「版籍奉還」から明治8年(1875)名古屋鎮台より歩兵七連隊として金沢に創設された6年間が描かれています。ここでは、当時の国内情勢や金沢県(石川県)、そして2人の青春のいら立ち、そして熱い情熱が伝わってきます。

 

 (金沢城石川門・明治には7連隊の門)

 

気焔万丈(きえんばんじょう):焔が高く燃え上がるように盛んな気勢という四文字熟語。侃々諤々!!意気込みが他を圧倒する熱い議論に燃える“加賀っぽ”たち・・・。

 

 

 (島田一郎)

 

明治2年(18695月。旧幕臣が箱館で降伏し、明治維新が成り元勲たちは外夷を跳ね返せる政治体制を目指します。新政府は封建制度から脱却を目論見、土地も人も天皇にお返しする「版籍奉還」が行われます。

 

しかし、加賀藩では、薩長土肥の新政府が2年後に「廃藩置県」を行い、藩の徴税権や徴兵権など根こそぎ独占することなどは思いもよらず、「列藩の標的」を目指し、金沢藩は新政府の方針に率先して従います。

 

「列藩の標的」とは、金沢藩が“全ての藩の手本”になると見た新政府が言わせた天皇の言葉で、その言葉に感動した慶寧公は素直にその言葉に従います。そして、2年後「廃藩置県」まで藩主慶寧公は藩知事と呼ばれ、武士階級は士族とし、足軽以下を卒族、それ以外は平民とされ4階層になります。

 

 (千田文次郎)

 

≪参考≫

拙ブログ

武士の既得権益①!!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12174183919.html

武士の既得権益②!!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12174260382.html

明治の金沢“政治結社”忠告社から盈進社まで

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12197003651.html

 

≪明治2年~明治8年の出来事≫

国内では

明治2年版籍奉還。明治2年大村益次郎の死。明治4年廃藩置県。明治411月~明治6年まで、特命全権大使岩倉具視を団長に使節団46名、留学生59名で欧州へ立つ。(加賀藩では15歳の慶寧公の嫡男利嗣が参加、加賀藩士は選ばれていない。)明治6年、西郷の留守政府の人事問題や西郷隆盛の征韓論で岩倉使節団の対立が激化。明治6年、徴兵令が正式に公布され国民皆兵制に、10月、西郷正式辞表提出し帰郷。明治7年、板垣、後藤、江藤、副島の前参議は「民撰議院設立建白書」を左院に提出。明治72月、不平士族4500人の挙兵し佐賀の乱が勃発。

 

金沢県(石川県)では

明治2年、卯辰山開拓終焉。明治2年、農民暴動。明治2年、本多政均暗殺事件。明治の最後の仇討ち。明治3年、慶寧公、書画骨董売却で農民救済。明治4年廃藩置県により慶寧公藩知事免職、金沢藩(加賀藩)の終焉に伴い藩主慶寧公東京移住(明治6年慶寧公薨去享年45歳)。明治48月、薩摩の内田政風が金沢県の初代大参事(権令、県令)により、正義党(後の忠告社)杉村憲正、陸義猶が台頭、この年旧加賀藩の歩兵隊は解体され県下隊として新たに出発。明治8年歩兵七連隊の創設。

 

 (金沢城の鼠多門・写真は明治)

 

文次郎と一郎

明治2年、福岡惣助の後妻卯乃の死。明治3年、文次郎の妻糸と嬰児の死。明治4年、文次郎は県下隊から名古屋の陸軍へ。 明治5年、一郎25歳で上京し仏兵学を学ぶが習得速度遅く軍席抹消。明治5年、長連豪上京し一郎を訪ねる。明治6年、一郎、長連豪を伴い金沢へ戻り政治結社三光寺派の結成。

 

(今の東別院)

 

≪参考≫

1.本多政均は、明治2年(186987日金沢城二ノ丸で、白昼堂々、登城してきた政均に不満を持っていた与力山辺沖太郎、井口義平により暗殺されます。事件後、実行犯は切腹になりますが、共犯者は軽い処分となり、本多家の家臣達は共犯者の処分が軽いことに激怒し、仇討ちを誓います。はじめは100人以上の家臣が・・・、月日が経過するうちに15人数に減ります。明治4年(187112人が共犯者3人の仇討ちを果たし、翌明治5年(1872)に切腹を命じられます。その後、明治政府は仇討禁止令を出し、そのため、この仇討は加賀の忠臣蔵とか日本最後の仇討とも言われます。

 

2.現在、石川県が金沢県ではないのは、明治4年の「廃藩置県」で、金沢藩は金沢県と改名されますが、明治5年に石川県、七尾県、新川県に整理されます。金沢は石川県の端っことなってしまったため県庁は美川(本吉)に移されてしました。美川町は石川郡にあったために「石川県」と命名され、明治6年、七尾県が廃止となったために再び県の中央である金沢に県庁をもってきて、そのまま石川県と呼ばれるようになりました。他の説に、当時、金沢には不平士族が多くそれを避けるため、石川郡の本吉(美川)に県庁を設けたのだという。また、宮武外骨が昭和16年(1941)に出した「府藩県制史」で、戊辰戦争で幕府方についた県には永久懲罰として、県庁所在地と県名と違えたという説も聞きますが、宮武外骨は反骨ジャーナリストで、こじつけ論をまことしやかに面白く書き、大まじめに騙された諸氏の顔を見て舌をだすということもあり、どうもその類だったのでは・・・?

 

(つづく)

 

参考文献:「西郷の首」伊東潤著 平成29929日 角川書店発行

(伊東潤略歴1960年神奈川県生まれ。早稲田大学卒業。「国を蹴った男」で吉川英治文学新人賞、「巨鯨の海」で山田風太郎賞と高校生直木賞を受賞。ほかの著書に「悪左府の女」など。) 「石川百年史」石林文吉著昭和47年石川県公民館連合会石林文吉著 「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話」大戸宏著 月間アクタス(平成84月号)北国新聞社発行ほか