本多の森の主!!初代本多政重①渡奉公 | 市民が見つける金沢再発見

本多の森の主!!初代本多政重①渡奉公

【出羽町】

本多の森は、原生に近い植生が残る緑豊な小立野台の一角にあり、金沢城の西南に位置します。1万坪余りの広大な敷地は、加賀本多家初代本多政重が加賀藩に再仕した慶長16年(1611)の翌年に上屋敷として拝領します。この上屋敷は当主と家族の住居ですが、本多家の家臣(陪臣)が出仕する場所でもありました。

 

 

 

 (現在の崖下から見上げる本多の森)

(本多家上屋敷跡・現在石川県立美術館、石川県立歴史博物館)

 

(本多家では、例えば寛文11年(1671)の家臣は、給人(知行取り)167人、小姓組60人、歩組177人、足軽140人、小者328人の合計872人とあり、他に侍女は記録がありませんので、よく分りませんが当主の家族も含めると大変な大所帯であることが分ります。それらの本多家の陪臣団は、家中町(現在の本多町周辺、約10万坪)を形成して「安房殿町」と呼ばれていました。)

 

 

 (本多家の跡)

(安政の地図・竹沢御殿が今の兼六園、その下に本多家上屋敷があります)

 

藩政初期は、まだまだ実力主義や下剋上の風潮が残っていたとはいえ、本多政重は始め徳川家に仕え、その後、大谷吉継、宇喜多秀家、福島正則、前田利長、上杉景勝、前田利光(利常)と七人の主君を仕えた「渡奉公」といわれていますが、周りからは徳川を背負っているように見え、仕えた大名の期待もさることながら、声にならない妬みや反感は半端ではなかったもの想像されます。

 

「武士は二君に仕えず」といわれますが、これは徳川家康が天下を取ってから儒学者の林羅山が中国の古典「史記」から引用したものだと言われています。)

 

 

 (藩政期の本多家の上屋敷図)

 

政重は、天正8年(1580)三河国(現在の愛知県)岡崎辺りで生まれます。本多正信の次男で兄は正純。正信は、謀将として知られた人物で、政重が前田家に斡旋される段階では、2代将軍秀忠を補佐するほどの実力者で、兄正純は、駿府で政治を執る大御所徳川家康の側近中の側近で、政重は、飛ぶ鳥を落とす勢いの門閥の次男坊でした。

 

(崖下から上屋敷の登る階段)

 

 

《参考》

本田正信~智謀を振るった徳川家の名参謀-戦国武将1000記事

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwj7is2Q-4zWAhWCWrwKHbsnDX4QFggzMAE&url=https%3A%2F%2Fsenjp.com%2Fhonda-masanobu%2F&usg=AFQjCNE34CBs7M-5TUbKc-_GwLb1-_203Q

 

 

政重が親元で育ったのは12歳まで、その頃、徳川家の譜代の家倉橋長右衛門の養子となり名は倉橋長五郎と改め、14歳で徳川家にはじめて奉公し、天正18年(1590)には、家康の関東移封に従い江戸に入ります。ところが18歳の慶長2年(1597)に徳川秀忠の乳母大姥局の子岡部荘八を諍いの末に斬殺し江戸に居ることが出来ず出奔します。出奔後は大谷吉継の家臣となり、その後、宇喜多秀家の家臣となって2万石を与えられ正木左兵衛と称します。

 

(岡部壮八の斬殺では、朋友の戸田為春が加担していたといわれています。)

 

 

慶長5年(1600)の関ヶ原では宇喜多軍の一翼を担って西軍側として奮戦しますが、西軍が敗れたために逃走、近江堅田へ隠棲。西軍方ではあったが家臣の立場でもあり、正信の子であったためともされるが、罪には問われませんでした。その後、福島正則に仕えますがすぐに辞去し、慶長7年(1602)には前田利長公3万石の家臣として仕えます。しかし慶長8年(1603)旧主宇喜多秀家が家康に引き渡されたことを知ると、宇喜多氏縁戚の前田家を離れます。

 

 

 (米沢の上杉景勝と直江兼続の銅像)

 

この頃、父正信への接近を図っていた上杉景勝の重臣直江兼続は、慶長9年(1604)閏8月政重を婿養子に迎え兼続の娘於松を娶り、上杉景勝の偏諱を受け直江大和守勝吉と称しています。兼続は勝吉に幕府権力と結びついて上杉家を取り仕切る役割、実子の平八景明には江戸における対幕府交渉の役割を期待し「直江体制」の維持・強化を図ろうとします。慶長10年(1605817日に於松が病死しますが、兼続の懇願により養子縁組は継続され、慶長14年(1609)に兼続は弟大国実頼の娘阿虎を養女にして嫁がせます。慶長14年(16095月末から7月初旬までの間に本多安房守政重と名乗ります。

 

(上杉家中では受け入れに反対する声もあり、直江兼続の弟大国実頼が政重を迎えに上京した使者を斬殺して出奔したと言われます。他家の人間に直江の家を渡すのは許せなかったのでしょうか・・・。)

 

 

 (米沢の直江家の墓)

 

慶長16年(1611)に上杉氏のから離れ武蔵国岩槻に帰りますが、慶長17年(1612)に幕府は、政重を前田家に送り込もうとして藤堂高虎に仲介をさせ、その結果、政重は前田家に帰参し3万石を拝領。家老として若い前田利常公(利長の弟)の補佐にあたります。

 

 

阿虎は、加賀にいる政重の許へ入りますが、この時に本庄長房(政重以前の兼続の養子)、鮎川秀定、志駄義種、篠井重則ら多くの者が上杉家の了解のもと、政重に仕えます。加賀本多家中の半数以上を旧上杉・直江家臣出身者が占めるのはこのためで、これには上杉家のお家の事情による人材、禄高減らしも窺えます。

 

(上杉家は関ヶ原後、米沢に移り30万石(以後15万石・18万石)になりますが、会津120万石当時と藩士は同数の6000人を抱え、藩の財政は困窮を極め、武士はクワ持ち、女達は機を織って生計を立てたといわれています。)

 

(つづく)

 

参考文献:「嵐のあしおと―近世加越能の群像―」田中喜男編(大野充彦著)株式会社静山社 198212月発行 「高岡法科大学紀要第20号 本多政重家臣団の基礎的考察―その家臣団構成について」本多俊彦ほか