前田利為侯爵①結婚記念事業 | 市民が見つける金沢再発見

前田利為侯爵①結婚記念事業

【富岡→東京→欧米】
16代前田家のお殿様②にも書きましたが、利為候は、前田家の分家旧七日市藩12代の5男でした。旧七日市藩の初代利孝は大阪の陣の功により幕府より一万石余りの封地を与えられ七日市(富岡)に陣屋を構えています。利為候(茂)は明冶18年(1885)6月5日に生まれ、当時分家旧七日市藩は東京の前田家本郷邸内に寄留しています。


(旧七日市藩の陣屋跡)


本家の15代利嗣候には後嗣する男子がなく、支藩の旧富山藩にも旧大聖寺藩の両家にも男がいなく、養子の対象は旧七日市藩に限られ、将来、結婚予定の利嗣候の長女渼子(なみこ)の年齢(明冶20年生まれ)を考慮し、明冶33年6月13日に危篤の利嗣候の病床より養子縁組願いを宮内省に提出し、茂と親子の対面を行い、利嗣候は翌日逝去されました。


(前田利為候について書かれた図書など)

翌日、茂は「累代の通字」と採り利為(としなり)と改め、家督相続、襲爵願が提出され、6月21日に故侯爵前田利嗣家督相続人前田利為の襲爵が勅許され、16歳の若さで侯爵としての第一歩を踏み出しました。


(「利為」の2字の出典は中国の古典「左伝」で、故前田利嗣候が男子出生時に命名しようと思っていたともいわれています。)


(「前田利為」の目次)

そして16歳の利為候の教育について、大叔父にあたる近衛篤麿公爵が教育全般を、直接傳育(ふいく)は織田小覚氏に委ねられます。織田小覚氏は、金沢出身で当時内務省に在職し人格、見識が高く、特に青少年の教育に熱意をもつていたので、退官してこの委嘱を引き受けることになります。


(以後、織田師傳と前田家が利為候の修練の場として創設した「敬義塾」において寝食を共にして漢学、国学、歴史以下の勉学に励み、剣道練磨、禅道修行に努めますが、候の織田師傳に対する傾倒は終生変わらなかったといいます。)




(本郷邸・前田利為の口絵)


前田宗家を継承した利為候は、明冶38年(1905)4月少尉に任官しその年5月満20歳を向かえ、翌年2月、先代利嗣候の長女渼子(なみこ)と本郷邸で古式に則り結婚式を挙げます。結婚に先立ちその年の1月に結婚記念事業を計画します。


一、 家政刷新
家政の刷新は、利嗣候薨去以来、時代の変化に順応出来ず、家政は古くからのならわしを頑固にまもる職員に任せられ、利為候が養子で幼年であったためもあり、また、世の中が日露戦争の勝利で主権在民、民主主義などの風潮が高まり、下克上の兆しが見えはじめていたことから、利為候は、結婚を期に「惰性による家政の流れを変えるためには主脳人事の刷新以外になし」と判断し実行します。


二、 松雲公綱紀事蹟編纂
前田家5代綱紀公の事蹟を刊行して、その恵みを世界に示したいと決意した利為候は、編纂は近藤磐雄を編纂主任とし、他7人を雇用して一年後の明冶40年(1907)4月には稿本25冊、紙数2,000枚の草案が完了し、幾多の曲折を経て明冶42年(1909)2月「加賀松雲公」の上・中・下巻を上梓し、明冶42年(1909)9月には、一般の人に読みやすいように配慮した藤岡作太郎編書の「松雲公小伝」を刊行します。この世に知られていない祖先の偉業を探求しこれを顕彰するという意欲は、以後、瑞龍公、芳春院などの編纂・刊行につながります。


三、 前田文庫設立
明冶39年(1906)松雲公事蹟の編纂に着手しますが、その時、蒐集した膨大な典籍、什器などを公開することは、隠れた祖先の偉業を押しひろめ、国益の資すると考え明冶40年(1907)7月に図書館・美術館の建設を決意します。美術館創設のための美術品の蒐集に傾注され大正15年(1926)に育徳会設立、昭和に入り尊経閣文庫に繋がっていきます。


(尊経閣文庫)


以上の3事業の実行を表明します。


さらに明冶43年6月満25歳に達するとは侯爵として貴族院議員に列します。


(つづく)


参考文献:「前田利為」前田利為候伝記編纂委員会・昭和61年4月発行。他