犀星のおもいでの金沢を歩く | 市民が見つける金沢再発見

犀星のおもいでの金沢を歩く

【八坂→犀川→泉用水】
昭和30年発行の雑誌「暮らしの手帖」に“おもいでの町金澤”という6ページ立ての犀星の文と写真が載った記事があります。多分、当時ですから写真はグラビヤ印刷だと思いますが、味わい深いモノクロで、その頃の流行の撮り方なのでしょうか、少し陰気ですが、そこには犀星の文章と共に何とも懐かしい昔の金沢があります。



(犀川大橋)


写真は、松本正利と書かれています。当然、犀星の文章をもとに撮られたものと思われますが、犀星の文章に梅雨上がり以外は雨の「あ」の字も書かれていないのに、どの写真も雨模様。「弁当忘れても傘忘れるな」といわれる金沢を、遮二無二に描こうとした編集者かカメラマンの金沢になっています。



(60年前の「暮らしの手帖」


始めてこの写真を見たときは、金沢は“こんなに暗くはないぞ”と思ったことを覚えています。でも今は、“そうか~金沢ってこう見えるんだ“と抵抗もなく受け入れられるようになりました。そう思えるようになったのは、あながち歳のせいばかりではなく、観光ガイドをしてから、今まで現実の生活で欠落していた「風情」や「情緒」を意識するようになり、その頃、金沢の気候の変化が楽しくて来てくださるお客様に出会い、その影響も大きいように思います。



(今の犀川)

ダラダラと前置きが長くなってすみません。これから60年前に遡ります。ここでは、その写真をお見せすることは出来ませんが、そこに撮られている6枚は、今も“アッあそこ”と分る風景が4カット、あとの2カットはその場所にいっても全く違った風景があります。


≪屋根石≫
犀星の書き出しは”上の句は忘れたが「・・・・や屋根に石置く北の国」といふ故郷風情は、金沢の町端れでもいまは容易に見られなくなった・・・”と書かれ、当時でも八坂のわずかに残る石置屋根の町家4,5軒にピントをあて、手前に、雨降る町を高校生らしき男女が傘をさして通りかかる姿はピンボケで雨降る道には二人の姿がボケボケで写っています。



(はっきりしませんが、道の角度からこの辺りか?)


犀星の文章は、少年の日の、石置屋根の思い出が綴られています。梅雨上がり石置屋根に梅干を紫蘇ごと干してあり、屋根の上で味あう酸っぱさで夏の訪れを知り、熱くなった石に手を触れた思い出が書かれています。



(八坂辺りと書いてあります)

(今も残る野町の石置屋根)


(写真の場所を探し八坂辺りを回りますが、家どころか場所すら分らず、時の流れを実感しました。そういえば、今では、石置屋根の家は、昔から有る野町の一軒のみで、後は足軽屋敷など移築復元したものです。)


≪長町の川面≫
“長町の川は犀川の辰巳用水から引かれ、市街の中央をまがりくねって趨(はし)り、水量は豊潤で、川床は浅いのでせせらぎは美しい・・・”と鞍月用水が書かれている文章に写真はもう一つ外側の大野庄用水が撮られています。川沿いに傘をさして歩く人の先の電柱に淡中病院の看板が見えることから場所が特定できます。(辰巳用水?鞍月用水)



(今の大野用水・構図はほぼ昔のまま、人が立っている辺り淡中の電柱)


犀星は、川べりを毎日歩いた高等小学校時代を“家鴨(あひる)の群れが水の上に詩を書き、川面すれすれに垂れた小枝は、毎日巴旦杏(すもも)がいろづいて行った。・・・・”と書き、やがて退学になる学校への行き帰りが綴られています。


≪犀川大橋≫
若い頃、大橋での友との夕涼みの様子が書かれ“・・・半分眠りながら彼が物語る嫁さんの話を聞いてゐた。半生を美少年として生ひ立つた彼は結婚の内輪話をしてくれ、私は女と女と結婚したような・・・”などと綴っています。



(橋は昔のままですが、周りが随分様変わりしました)


写真は、手前には黒く鈍く光る金沢らしい瓦屋根を配し、金沢らしくない鉄橋の犀川大橋が横たわっています。橋の上には傘をさした人が点のように写りバスが行き交っています。右岸の袂には今はありませんが、塔のある西洋建築が見えます。


(金沢らしくない鉄橋も今ではこのての鉄橋では日本で一番古いものらしく、いつの間にか犀川のシンボルとして金沢らしい風景になっています。)


≪香林坊≫
”香林坊はぶらつく処ではない、ぶらつくのは片町の町すじであり・・・“という書き出しで、いま109がある処にあり、東京の浅草の情景を髣髴(ほうふつ)させる大神宮境内の様子と、若い頃、新聞記者時代の頃の片町と記者としての苦い思い出が綴られています。



(随分様変わりしてますが、手前が香林坊橋)


写真は、夜の香林坊・・・。外灯の光が、雨で濡れた市電の線路のある街路を照らし、よくよくよく見ると、外灯の下に相合傘らしき影が見えます。線路が分岐しているので、多分あそこでは思いますが、今では一番変わってしまったところですから場所を特定するのが難しいところです。


≪W坂≫
“昔のW坂は草茫々、石ころゴロゴロ、樹木少々、途中でひと憩みしてタバコを喫んで、お婆さんなどやっこらさと更に半分のこした分の坂を登ってゆくのである。・・・”と綴られ、前回も引用しましたが、70年前(昭和30年の)、明治の30年代からW坂といわれていた事を伝えています。



(今のW坂)


犀星は、子供の頃のW坂を綴っていますが、写真は昭和30年代、雨の坂を蛇の目の傘の婦人が子連れで登ってきます。坂の様子は今とあまり変わりませんが、坂の途中の木が随分太くなったように感じられます。


≪泉用水≫
犀星が20歳まで住んだ雨宝院前の用水と向かいの真宗のお寺のことが書かれています。“この用水の古い石垣は深く、とつつきのお寺は毎日毎晩お説教があり老いた善女達が、堂内にぎっしり詰まっていた。”そして今もある川に出っ張った指物師の家で、掃き塵を落とすためのものだったと、近くに住んだものならではの内幕が語られています。


(今の徳龍寺の欄干とトタン張りの元指物師の家)

(引いて撮った上の写真)

写真には、舗装していない道路が見えます。変わったところといえばお寺の前の欄干、そして指物屋さんの家には防火用のトタンが張られていますが、60年前の姿がかなり残っている数少ない処です。写真に写っている用水は泉用水といって、雨宝院の前を流れ、寺の前には橋が架かっていたものと思われますが、暗渠になり今は昔です。



(室生犀星)


参考文献:「暮しの手帳」30号おもいでの町「金澤」室生犀星著 1955(昭和30)年7月号