小立野の古地図めぐり⑧宝円寺(その2) | 市民が見つける金沢再発見

小立野の古地図めぐり⑧宝円寺(その2)

【金沢・小立野】
宝円寺の地形は、平面図を見ているだけでは起伏が分からないので、昔、この地に城(保塁・砦)があったといってもピンときませんが、小立野台地に連なる小高い丘で、高さは小立野台とほぼ同じ海抜50数m位で面積は約1万1千坪。南西側の谷は木曽の山中に似ていることから昔は木曽谷といわれていたそうです。また、北東には数100m先に浅野川が流れ、崖の際には椿原天満宮を経て越中砺波郡に繋がる街道で、まさに自然の地形がそのまま要塞になっています。



(小立野台地にある宝円寺)


≪宝円寺の木曽坂城伝説≫
宝円寺の旧跡は、木曽義仲ゆかりの樋口氏の城館だったといわれています。義仲の討死(寿永3年(1184))で南征に夢破れた樋口氏は敗残の身を故郷木曽谷に似たこの地に定住したのではと伝えられています。以後、子孫は文明の一揆(1474)に、若松の地頭狩野氏と共に富樫幸千代側に付いて敗北します。





(今は道が繋がっていない木曽谷跡)


当時は、木曾坂城(宝円寺)を中心に、眼下の高垣堡(天神町緑地)、右翼の椿原堡(椿原天満宮の上)、左翼の田井堡(城)(国立医療センター)で“鶴翼の陣”を形成していたのではないかと考える歴史学者もいます。以後、若松に本泉寺(1487)が入り、長享の一揆(1488)では、高垣堡、椿原堡、田井城と共に一向一揆軍の防衛線になったのではと伝えられています。


(樋口氏の先祖は、源平の合戦で敗北した平家の斎藤別当実盛を片山津の“首洗の池”で首実検した木曽義仲軍の樋口次郎兼光といわれていいます。)


(上が宝円寺)

(昔の街道・天神町)

(椿原天満宮)

(浅野川)


≪俵屋宗達伝説≫
日本美術協会(龍池会が明治20年(1887)改称。大正のはじめ幹事に金沢出身の宮崎豊次が在籍)は、明治、大正、昭和にかけて旧派の美術界の根城で、大正のはじめ頃には、維新の変動で古寺や大名などの斜陽族が名品を手放しましたことから、めずらしい名品を展覧するなど、伝統美術の再認識とその復興に力をつくした保守派の団体で、大正3年(1914)春、金沢出身の美術史家中川忠順氏らによって宗達記念会を上野公園で開催し「宗達画集」が出版されました。

(墓地の宗達の墓への矢印)


それに際し墳墓の調査を金沢市長山森隆氏が依嘱され、市史編纂の和田文次郎氏の青青会に知らせます。宝円寺には、過去帳(田原屋の條に「泰嶺院宗眞劉達居士 寛永二十年八月十二日」と見え、明治24年(1891)6月改め「墓籍埋葬簿」に墓主不詳塔と記し、但書に「画かき宗達墓」という附記)、「書上等控」(田原屋宗達ヲ葬ト云宗達五世泰山和尚ニ帰依スト載セタリ過去帳ノ所見)というのがあり、それにより宝円寺にある五輪塔の台石前面中央の「泰嶺院…」と一致したということから和田文次郎氏等の青青会は「宗達の墓」としたのでしょう。



(宗達の墓)


青青会は、大正3年(1914)8月12日、宗達会を発足。現在も宗達忌法要茶会が催され、昨年は100回目が執り行われました。



(参道の宗達の碑)


ただ、この五輪塔が「宗達の墓」であるかは議論のあるところで、現在のところは金沢だけで通用する話のようです。(宗達の生没は、美術年鑑などでは生没年不詳。)


参考:金沢の俵屋宗達伝説
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11714480833.html  


≪最近の宝円寺≫
平成25年(2013)、宝円寺では前田家の御子孫に当たる東京在住の建築家前田紀貞氏の建築塾のワークショップが開催されました。今年の「第2回寺小屋ワークショップ」では「建築を考える為の基礎講義」が開催されます。講義は” 存在ってなに?自然ってなに?芸術ってなに?“から”禅とは何か?“等、7回完結だそうです。設計演習は「弔いの場」が課題で、ワークショップは前田紀貞建築塾のエッセンスを凝縮したものになるそうです。


(現在、宝円寺では山門・塀の改修工事が進められていますが、看板には、設計 監理前田紀貞アトリエと書かれていました。)






(山門改修工事)


その他、9月より「お寺で縁結び」と題した”お寺で婚活パーティー“が定期的に開催される等など、新聞記事には、これからのお寺のあり方を伝えています。

(北国新聞平成26年8月18日の記事)


参考文献:「追想・護国寺宝円寺(曹洞宗)」園崎善一著 平成14年8月発行・「消された城砦と金沢の原点を探る― 一向一揆時代の金沢・小立野台地周辺考」辰巳明著ほか