寺町の幻の大別荘と一部現存する庭園② | 市民が見つける金沢再発見

寺町の幻の大別荘と一部現存する庭園②

【金沢・犀川左岸寺町台】
前回に引続き、寺町、横山家の別荘と庭園です。何故、ここに別荘がということになりますが、そのことについて、横山家の資料には見当たりませんので昔の史料から推測するしかありませんが、ここは市街地からそう遠くはなく、眼下には犀川が流れ、向には金沢城と今の兼六園の緑がすぐ近くに感じられ、卯辰山から朝日がのぼり、夜には月も、さらに戸室山や医王岳が一望できる風光明媚な土地であることに尽きるのではと思います。


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(現在の寺町台から戸室山・医王岳方面)


藩政初期、今の金茶寮辺りから下(しも)にかけて、昭和の中頃まで長良町、桜畠一番丁から十番丁といったところですが、利常公が、金沢城東丸に住んでいた実母寿幅院のために、東丸の太鼓塀に窓を開け、この辺りの城から見えるところに桜を植えさせたといいます。その後、利常公が逝去で公に仕えた足軽などが小松から金沢に帰ってきた時に、その桜の木を切り足軽を住まわせる組地にします。


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(クレーン辺りから白いビルの左のビル(石田病院)辺りまでが横山家別荘)


また、藩政時代、今の金茶寮辺りは、“吹上”と言われています。今以上に風光明媚なところだったと思われますが、たまにキズは、常に風が強く、冬は、雪が「吹上げる」のでそのように呼ばれていたそうです。しかし、それにも勝る眺望から、津田家や小堀家の別荘など、藩士の別荘などもあったといいます。


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(太正時代、このあたりも横山家別荘か・・・)
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(クレーンのところが現辻庭園)

その津田家の別荘は、文政年間に著名の漢詩の大家大窪詩仏もこの津田家の吹上別荘に遊び、お気に入りで、別荘を「水石亭」と名づけたと伝えられています。その別荘は幕末の金沢図にも記載されています。


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(大窪詩仏)


当時から特に有名だったのは、利常公と小堀遠州との繋がりから、加賀藩に2000石で仕えた遠州の孫、小掘新十郎から数えて3代目、金沢町奉行なども務めて小掘永頼(明和2年(1765)82歳で没)は、特に眺望が良いと云われたところに別荘を構えていて、当時の風雅の人々が、その別荘を借り上げて、宴会を催したといわれています。


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(画面の左当りに津田家の別荘があったらしい・・・。)


永頼の没後も有名で、江戸時代中期、寛政期(1789~1801)に当時“与謝蕪村”と並び称されて南画の大家“池大雅”が京より、この別荘に一時、仮住まいをしています。


滞在中に戯れで、壁に “布袋が河を流れる図”を描き、どんなものかよく分りませんが、その絶妙の画筆がこの亭の名物になったといいます。何しろ壁に描いた絵なので、年月が経つにつれ、筆跡が消え、それでもその別荘は明治維新まであったそうですが、今となってはその場所の特定はできませんが、別荘の名は「四序閣」と言ったといいます。


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(池大雅)


(残念ですね!!紙に書いたものなら、残っていたのに、お宝が一つ消えしまいました。このような事を、昔の金沢弁は“あったらもんの”といいますが、ほんとあったらね・・・です。)


少し余計なことになりますが、時代は下(くだ)り、幕末イギリスの外交官アーネストサトウは、七尾へ来た帰り、金沢に立寄り、寺町から金沢城を眺め、絵のように美しい城郭といい、お城の周囲の沢山の樹木は公園のように見え、ヨーロッパの厳めしいキャピタルとは大いに趣を異にしていて、緑に包まれた素敵な城だと絶賛しています。


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(望月はこの当り、大正時代はここも横山家の別荘か・・・)


また、私の友人で、新婚時代に、金沢らしいところに住みたいと、2階住まいで、少し不便だったそうですが、作家の曽野文子さんが戦時中疎開で住んだという料理屋の跡に下宿したとかで、何回か聞かされていましたが、昔も今も変わらぬ風光明媚は、金沢人の憧れの土地であります。


(曽野文子が疎開した料理屋の跡は、戦前、今の寺町石田病院の裏の崖ぎわにあった辰村組が経営したという「望月」のこと)


参考文献:森田柿園著「金沢古蹟志」など