寺町の幻の大別荘と一部現存する庭園① | 市民が見つける金沢再発見

寺町の幻の大別荘と一部現存する庭園①

【金沢・犀川左岸寺町台】
鈴見山辺りから上がった“居待月”がお庭の樅の木の陰越しに・・・。“料亭金茶寮”さんで金沢出身の俳優篠井英介様をお迎えして開催された”宴”に参加させて戴きました。


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(小立野や卯辰山が借景、金茶寮大広間より)


(この催しは、歳時記「伝統文化に触れ、加賀料理を食す」と称し、加賀の文化の継承の一つとして、金沢の文化を担う方々をゲストに食談と加賀料理を楽しむというもので、今まで60数回、毎月連続で行なわれてきたもので今回が5周年の記念の宴でした。)


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(居待月)


かってこの土地には数万坪を有した横山男爵とその一族の迎賓館ともいわれた別荘と庭園がありました。現在は、この風光明媚な崖ぎわの一帯は、分筆され金沢の高級住宅地に変わっていますが、一番奥に位置した金茶寮さんとお隣の辻庭園の三千坪だけが往時の姿を留めているといわれています。

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(金茶寮の宴)
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(22日北国新聞朝刊より)

横山家は、藩政時代は3万石を拝領した「加賀八家」で加賀藩では重きを成した家柄で、明治から大正には鉱山を開発して、大成功をおさめ「金沢は横山家でもつ」といわれた名門中の名門です。


藩政期のことは、このブログでも高山右近の項や加賀八家のところで少し書きましたが、大正期のこちらの別荘や庭園のことについても興味を持ち知りたいと思っていましたが、実態が分かるものが極めて少なく、思いだけで留まっていました。


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(借景、金茶寮の大広間より)


寺町台については、詳しく書かれたものに70ヶ寺以上もあるお寺さんのもの、また、明治に書かれた森田柿園の金沢古蹟志には、藩政初期3代利常公が実母寿福院のための植えたという桜の話、その後、足軽の組地になった桜畠、風光明媚な崖の上にあったという、藩政期の藩士の別荘に付いて書かれているものはありますが、維新後や大正期、特に横山家別荘と庭園について書かれたものにあまり出会ったことがありません。


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(金茶寮の門)
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(借景、金茶寮より)
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(辻庭園の一部)


わずかに私が目にしたものといえば、父が横山家の家来であったという徳田秋声が大正6年に発表した「菊見」に書かれたものと金茶寮のお隣の現在の辻家庭園のご主人が書かれたものが主なもので他はそれらを下敷きに書かれたのもが大半で、それだけでは実態が中々つかめませんでした。


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(辻庭園の一部)


今回、料亭金茶寮のイベントに加えて戴くことになり、横山家の御当主のご好意で、かって横山家の蔵の中にあった資料の幾つかを見せていただくことが出来ました。


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(横山家の史料)


史料ともいえる筆で書かれた貴重なもので、今回は読むというより見ただけに終わり、それも興奮のあまり全貌どころか、ボオ~と眺めるだけで、ただ、字面を追うだけで見とれていました。しかし、今まで疑問に思っていた幾つかが、私なりに分かったことがありましたので、まとめることは出来ませんが、これから断片的ですが、何回かに分けて綴ります。