金沢の二十五天神巡り(第1回) | 市民が見つける金沢再発見

金沢の二十五天神巡り(第1回)

【寺町→中央通町】
宝暦2年(1752)菅公850年祭に金沢の俳人たちが城下の二十五の天神を巡り俳句集「北の海」を編み、田井天神社に奉納したという記録があります。それによれば金沢でも昔、二十五天神巡りが行われていたことが分かります。全国各地でも二十五天神巡りが行われていたそうですが、誰が始め、誰が数・順番を決めたかは定かではないそうで、時代によって巡る寺社が変わり、数は同じでも順番が違っていたとも聞きます。


(金沢の“二十五天神巡り”も同様で、今は残っていない天神さんもあり、また、天神画像が、現存する神社に移安されたものがあるそうです。)


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(1番は、今の泉野菅原神社)


二十五という数字ですが、道真公の誕生日と命日がともに25日であったことから、毎月25日を例祭としていることが多く、藩政期、毎月25日は天神様の縁日であり、とくに旧暦1月25日を「始め天神」、12月25日を「終い天神」とよんで参詣したといい、これが新暦に移行した現在でも25日にはそのように呼ばれているそうです。


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江戸時代の中期には、京では“洛陽天満宮二十五社巡拝”という習わしがあり1番の道真公誕生の地と伝えられる菅大臣神社から25番北野天満宮まで、巡拝が行われていたそうです。江戸でも道真公を祭る25社を“江戸二十五天神”と称したそうで、どうも二十五という数字は、誕生日と命日の25日に合わせたように思えます。


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(六斗林)


金沢でも、宝暦2年(1752)には30社以上の天満宮があったといいますが、25社にしているのも道真公の誕生、命日の因んだ吉数にすぎなかったようで、何故か当時でもよく知られた天満宮が含まれていないものもあり、また、今だからでしょうが天神さんとの関係が明白でないお寺もあります。


(前田家は菅原道真公の子孫といわれているので、前田家に関わる寺社では天神さんを祀るのは当然といえば当然かも知れませんが?)


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(泉野菅原神社の五葉松)

金沢の俳書「北の海」というのは、前にも書きましたが、宝暦2年の菅原道真公の850年祭に、今の椿原天満宮に奉納された俳書で、当時の金沢の”天神二十五天神巡り”のことが少しだけ分かる数少ない資料で、それを頼りに、寺社の方々にも、お聞きしながら3~4回に分け、全コースの25社を巡ります。


(当時、俳書「北の春」は、金沢に住む綿屋希因の弟子の俳人水巻亭楚雀(通称住吉屋次郎右衛門)が主催した発句集だそうです。)


≪金沢の二十五天神≫
1玉泉寺(泉野菅原神社)→2 西方寺→3真長寺→4願行寺( 祇園摂社)→5 成学寺→6宝来寺(小橋菅原神社)→7宝久寺(犀川神社)→8常光寺(豊田白山神社)→9 成応寺(長田神社)→10出雲寺(豊田白山神社)→11放生寺→12 顕証寺(平岡野神社)→13灯明寺→14持明院(白髭神社)→15 安江社(安江八幡宮)→16 崇禅寺→17浅野社(浅野神社)→18神明社(小坂神社)→19乗龍寺(妙義社共々隣の西養寺に合併)→20来教寺→21 咸応寺(現松尾神社に移安)→22卯辰八幡(現在の宇多須神社)→23天道寺(浅野川神社)→24 乾貞寺(廃寺)→25 天満宮(椿原天満宮)


(前置きが長くなりましたが・・・・。)


≪第1回は、泉野菅原神社から現在の犀川神社まで≫


1玉泉寺 網敷尊影 野町三丁目(旧三間道) 時宗。現在の泉野菅原神社

通称玉泉寺の天満宮といわれ、二代藩主前田利長公の夫人玉泉院が前田家のため、元和3年(1617)秋に、金沢に天満天神堂を建立し、越中新川郡の浄禅寺12代住職を招き別当としました。


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(泉野菅原神社)


2西方寺 鏡尊影 寺町五丁目(旧泉寺町)天台宗 
藩政期、天台宗の触頭で、「飴買い地蔵」で有名ですが、“鏡尊影”という道真公が自ら描いたと伝えられる3代藩主前田利常公愛蔵の品が預けられていたことから、「お預け天神」の寺として知られていました。


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(西方寺)


3真長寺 稲荷別社野町一丁目(旧蛤坂町)真言宗
真長寺の稲荷大明神は金沢城内稲荷屋敷に安置されていたお稲荷さんで元和8年(1622)に御城普請で金沢城南西の鎮護のため真長寺に遷座され、このときより藩主より祈祷を命ぜられました。明治になり神仏分離で、明治7年(1874)郷社泉野神社(現在の神明宮)に移しますが、お堂のみ建立し御神体はそのまま真長寺が拝し現在に至っているそうです。


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(真長寺)


4願行寺 祇園摂社 野町一丁目(旧蛤坂町)本山派山伏。現在の八坂神社
加賀藩初代藩主前田利家公の幼友達で本山派の山伏願行寺(現行院とも、宝久寺の双子の兄)が利家公に伴われ、金沢に入城し、城下の鎮護厄除疫病の祈願を命じられました。明治のなり修験道が廃止になり八坂神社と改めました。

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(八坂神社)


5成学寺 袖敷尊像 野町一丁目(旧蛤坂町) 浄土宗
浄土宗で高養山と号し、六斗林に移った玉泉寺(玉泉寺の天満宮)の跡に正保4年(1647)建立されました。本堂は創建当時のままで、江戸初期の建築様式が残っている貴重な建物です。ご住職によると、元玉泉寺の天満宮の跡に建てられたことから、菅原道真公が祀られ、厄除け、学問の神様として信仰され、御開扉は33年に1回、次回は18年後になるそうです。


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(成学寺の袖敷天神)
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(成学寺)


6宝来寺 本社 片町一丁目(旧古寺町) 本山派山伏。現在の小橋菅原神社
藩政期、修験派山伏の宝来寺が別当の天満宮でした。元禄3年(1691)の略縁起によれば、菅原道真公の弟が河北郡吉倉村(津幡町吉倉笠谷地区)に創建したと伝えられる山伏を社僧とする神仏混淆の社で、後、社僧道安により犀川小橋際に移転します。慶長19 年(1614)大阪夏の陣がおこり、藩主前田利常公出陣に際し利常の乳人が無事凱旋を祈願したといいます。


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(小橋菅原神社)


7宝久寺 春日四所明神 中央通り(旧犀川堰)本山派山伏。現在の犀川神社
藩政期は中村神社の別社で“宝久寺の春日”と呼ばれ、修験派山伏の觸頭生廉山宝久寺が奉仕していました。また、宝久寺の元祖空峰(祇園社の双子の弟)は、藩祖利家公と幼友達で、大和の国大峰山(山伏修験道の本山)への代参をした間柄で、利家公と共に金沢に移住したのだそうです。天神さんについては、あまり記述ないので神主さんにお伺いすると、昔から祭神ではないが相殿として祀られているというお話でした。利家公との関わりから当然といえば当然だということのようです。



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(犀川神社①)
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(犀川神社②)


第1回は、4月25日の午前中、天神さんのお陰か好天に恵まれ、感謝しつつ春の寺町から犀川沿いを楽しみました。(前日は雨、翌日は雨あられ)

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(参加者)


次回は6月の予定。