菓子処金沢の“五色生菓子” | 市民が見つける金沢再発見

菓子処金沢の“五色生菓子”

【中の橋→小橋・旧博労町】
金沢の“嫁取り(よめどり)”に欠かせないものに400年以上も続く“五色生菓子”があります。そう、“嫁取り”以外にも“初産帰り”“建前(たちまい)”“開店祝い”にも五色生菓子が用いられていましたが、いつの頃からか多少日持ちの良い紅白饅頭なども使われるようになり、それも最近では省略されることも多いそうです。


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(越山甘清堂本店のディスプレー)


当然ですが、“嫁取り”や“建前”を知らせるために積み上げた五色生菓子の“セイロ”も飾らなくなり、私の記憶から消えていました。最近、通りかかった武蔵が辻の“めいてつエムザ”裏にある”越山甘清堂“のモダンな店舗の前に”セイロ“が積んであるのを久しぶりに見かけました。


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(越山甘清堂店頭のセイロ①)


積み方は昔見た、3段か4段と高く積んで、お目出度い目録が張られたものと様子が少し違い、ディスプレー用として、モダンな建物に合わせたのでしょうか、横長でおしゃれに2段に積まれ、目録もなく、すっきり並べられていました。


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(越山甘清堂店頭のセイロ②)


昔の金沢では、“嫁取り”ともなると五色生菓子を偶数の5種4個セットで重箱に20個を入れ、さらにその20個入りの重箱を5段、大きな“セイロ”に入れ、五色生菓子100個のセイロが2箱で“一荷(200個)”と数えられ、飾る時は、家の前に空の”セイロ“だけが並べられました。


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(写真提供:金沢市)


結婚式の翌日、嫁が持って来た輪島塗の重箱に偶数の五色生菓子を入れ “ふくさ”を掛けて婚礼の後のお礼まわりに、親戚やご近所に配りました。(最近は偶数にこだわらず奇数の5種3個の15個が多いらしい。)


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(今も店頭に並ぶ金沢の生菓子・近江町)

(生菓子の定義:水分を多く含み、日もちのしない菓子。食品衛生法に基づく厚生労働省によると(1)出来上がり直後において水分40%以上を含有する菓子類。(2)餡、クリーム、ジャム、寒天、もしくはこれに類似するものを用いた菓子類。“出来上がり直後において水分30%以上含有するもの“と定義され、消費者庁の表示指導要領もこれに沿っています。)


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(駐車場のところに樫田吉蔵の菓子屋がありました。)


≪樫田吉蔵伝と五色生菓子伝説≫
明治の郷土史家森田柿園著「金沢古蹟志」の樫田吉蔵伝によると、“藩政初期、博労町の樫田(くわしや)は世々吉蔵と称し、元祖以来生菓子と称する餅菓子を産業とす。故に屋号を菓子屋と呼べり。寛文元年(1661)の由緒書に、慶長5年(1600)天徳夫人当地金沢御入輿の時、町中吟味の上、元祖吉蔵へ生菓子御用被命たり、”とあり、以後も利長公に召寄せられ高岡で生菓子の製造を命じられ、2代目吉蔵は、4代藩主光高公に雇い入れられ江戸にて8年間、生菓子製造を命じられています。


(天徳夫人:徳川2代将軍秀忠公の娘珠姫。前田家3代藩主利常公に御入輿)


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(明治21年の石川縣下商工便覧より・“吉蔵”が“吉造”になっています。この便覧が発行された以後、店じまいをしたのでしょうか。)


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(旧博労町の石碑)


「金沢古蹟志」では、“生菓子といえるものは、金沢の名目(みょうもく・名称)にて、もとこの家(樫田吉蔵)に初めて製出す。故に家号を古来菓子屋と呼べり、されば金沢市中にて生菓子の本家也。生菓子は実は金沢町の名産なるを以って、今に至り郡方の者共、尾山(金沢)の生菓子と称美して、是を第一に買い求め・・・・”とあり、


さらに“生菓子の名は、干菓子の対したる名目なり、菓子は「木の実」をいえる、是菓子の本称なるを、後に糯子(もちこ)を製して、「木の実」なる菓子の擬造し菓子と称す。”と書かれています。



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(藩政時代の博労町と樫田吉蔵家の地図)


五色生菓子は、森羅万象を表す「日月山海里」をヒントに創作したといわれ、宇宙すべての実り、恩恵を象徴し、大自然に感謝する心を現しているそうです。前田家が金沢を去った明治期に、庶民の間でも婚礼時に贈る習慣が根付いたといわれています。


日・・・太陽をかたどり、円形の餅に紅色粉を付け日の出を表す。
月・・・白い饅頭は月を表す。
山・・・黄色く染めた餅米粒を付け、山を象徴する“いがら餅(エガラ餅)”とも云う。
海・・・菱形の餅は海頭の波を表し“ササラ”とも云う。  
里・・・蒸し羊羹は村里を表す。
(山を蒸し羊羹(茶色い山)・里をいがら餅(黄色い稲穂)という説もあります。)



この森羅万象を表す「日月山海里」の設定や意匠については、確たる資料はないものの、前田家の盛衰に関わる婚儀に際し、大膳頭、学者、御典医等々知恵者が宮中の嘉祥菓子(かじょうがし)や“ういろう(現在の蒸し羊羹)”のように活力剤を用いるなど、また、公家や武家の故事も研究し、知恵をしぼり創案したのでしょう・・・。


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(越山甘清堂近江町店の五色生菓子のばら売り)

(森田柿園(1823-1908):幼名を鉄吉、のち平之佑、平次等と称し、号を柿園と称した。嘉永元年(1848)26才の頃より著作が見られ、嘉永4年(1851) 29才の時に主家である茨木家の家譜編纂にあたるようになり、以降、歴史家としての活躍は明治時代になってからピークを迎え、前田家御家録編輯方にも属していました。)


参考文献:森田柿園「金沢古蹟志」・諸江屋ホームページhttp://moroeya.co.jp/ など