“ほっと石川”野々市市と一向一揆 | 市民が見つける金沢再発見

“ほっと石川”野々市市と一向一揆

【野々市市と金沢市四十万→高尾】
5月17日、石川県下の観光ボランティアガイドが県のバックアップで集う連絡協議会“ほっと石川”の総会と勉強会が野々市市の文化会館フォルテと金沢の額(ぬか)四十万(しじま)の一向一揆ゆかりの善性寺で開催され参加しました。


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("ほっと石川”総会とレクチャー)
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(会場のフォルテ)


(余計な話ですが、野々市も額四十万、高尾も藩政期から加賀の石川郡で、時代が下り四十万も高尾も金沢に合併し、野々市町だけが石川郡でした。昨年、野々市が“市”になり、石川県の名称の元である石川郡が消滅してしまいました。)


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(レクチャー)


午前中は総会で、新幹線や大河ドラマの誘致、さらには県内各地の未組織なボランティアガイドの設立及び支援等々、挨拶、説明、収支決算報告、事業計画とお決まりの式次第が進み、“シャンシャン”。午後より冨樫家と一向一揆についてのレクチャー、その後、野々市市に屋敷があったという富樫家跡、金沢に入り高尾、四十万の現地案内がありました。


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(冨樫館跡で解説)
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(冨樫館跡の説明板)
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(冨樫館跡の碑・北鉄工大駅前)

レクチャーの後、参加者はバスや自家用車に分乗して野々市市内の発掘された冨樫家屋敷跡や少し離れたところにある冨樫館跡の碑を見学しました。冨樫一族の屋敷が、この広大な敷地に存在したことを想像しつつ、金沢市内に入り、長享2年(1488)の一向一揆で滅びた冨樫政親の山城だった高尾城跡(タコ城)を遠方に眺めながら善性寺に向かいました。

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(善性寺)


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(善性寺の門)

四十万の善性寺は、一向一揆で滅亡した冨樫政親や冨樫家に繫がる真宗大谷派のお寺で、歴史は古く応永35年(1427)に開創されたといいます。はじめは天台宗の寺院で、法慶坊の時代に加賀の守護冨樫氏の援助で寺基を固めたといいます。


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(境内の蓮如上人像)


蓮如上人が文明3年(1471)12月上旬から翌年の2月2日まで逗留したお寺としてもよく知られ、“御眞骨”“御誡歌”や“藤つるをつぶして書かれたという六字名号”など、蓮如上人ゆかりの寺宝、さらには向の山を180mほど登ったところに蓮如上人のお墓があります。


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(蓮如上人御手植えのガヤの木)

善性寺の寺宝には、500数十年前の文明年代に書かれたという教本“三条和讃”や冨樫家から嫁いだ善性寺法慶坊の妻が持参したという“天龍寺青磁香炉”“寺領証”さらには画聖雪舟を師として馬の絵をよくしたといわれている冨樫政親の馬ならぬ“鶴の絵”、最後の守護冨樫晴貞の直筆“乳呑馬”の絵があります。


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(晴貞の”乳呑馬”の絵・続富樫物語落穂集”より)

(お宝ですから、写真に撮ることは出来ませんが、予約をしてお尋ねすることが出来るそうです。尚、政親の馬の絵は金沢工大にあると聞きました。)


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(参道)


当日は天気も良く、20分も登れば蓮如上人のお墓にお参りすることが出来ると聞き、みなさんの後について登りましたが100mぐらい登ったところで足が笑い出し、狭心症の心臓が煽りだしたので断念し無理せず引き返しました。正直、その時は“極楽に行かなくても結構”と思いましたが、帰ってから悔やまれて・・・・迂回路を聞きました。いつかバイクで再度、と密かに思っています。
言ってしまった!!

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(お墓に登る道)

「百姓の持ちたる国」といわれた加賀の一向一揆には以前から関心もあり、真宗大谷派の末端の末端に繫がる者のとして、蓮如さんに強く引かれます。その内に・・・、とこれまた密かに思っている三日坊主でした。


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(裏山は高尾城跡(タコ城)

参考文献:“ほっと石川”の辻貴弘氏が作成された資料・「続 富樫物語 落穂集」富樫卿奉賛会平成8年発行など