朝霧大橋とその周辺 | 市民が見つける金沢再発見

朝霧大橋とその周辺

【銚子口橋→(朝霧大橋)→上田上橋】

平成18年(2006)10月12日に開通した“朝霧大橋”は、都心部と湯涌温泉や医王山をつなぐ「田上舘町線(全長1.4km)」に架かる橋です。かっては、この浅野川右岸の上田上は山間の田園地帯でしたが、ずいぶん変ってしまいました。地元の人から“田上にゃ田圃が無いがんなった”と聞いたことがありますが、今、田圃の跡地は、平成14年(2002)に愛称”田上本町朝霧台”と名付けられ、しゃれた建物が建ち並んでいます。

市民が見つける金沢再発見-朝霧大橋①
(浅野川に架かる朝霧大橋)


“田上本町朝霧台”は、金沢市都心部より南東4kmと近く、緑豊かな丘陵と清らかな浅野川の流れなど自然環境にも恵まれたハイレベルな住宅地です。金沢大学の移転や“山側環状”の平成18年(2006)4月15日の全線開通もあり、金沢大学の門前街として鈴見、若松地区、田上第五地区と共に注目を集める町になりました。


市民が見つける金沢再発見-トンネル
(田上大橋から涌波崎浦トンネル)
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(田上大橋とトンネルの模型・崎浦公民館より)

(山側環状:金沢外環状道路山側幹線(石川県道22号金沢小松線)平成18年(2006)4月15日に田上町交差点~長坂台小学校東交差点間の供用開始により開通。涌波崎浦トンネル(田上町交差点 - 大桑IC、本線部・浅野川に架かる橋は「田上大橋」)涌波トンネル(涌波1丁目交差点 - 涌波2丁目交差点、側道部)の完成で金沢市野田、金沢市長坂台小学校東交差点そして石川県道22号金沢小松線つながりました。)


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(朝霧大橋のアップ)

市民が見つける金沢再発見-雪吊り
(兼六園の雪吊り)


10年ほど前には、何にも無かった町中を南北に縦断する道路は、浅野川を渡り湯涌街道につながっています。浅野川に架かる朝霧大橋は、遠目には円錐形に縄を張り巡らせた”兼六園の雪吊り“のように見えたりしますが、近寄って見上げると吊橋で、“2径間連続エクストラドーズド橋”というのだそうです。


(エクストラドーズド橋:主塔と斜材により主桁を支える外ケーブル構造による橋梁形式)


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(山側環状も朝霧大橋も朝霧台も何にも無い(崎浦公民館より)平成12年撮影)

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(様変わりした朝霧台)

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(新築ラッシュの朝霧台)


朝霧大橋を渡った浅野川左岸は、湯涌街道の舘町や舘山町地区です。藩政期、この辺りの小高い丘を越えると塩硝蔵のあった土清水(つっちょうず)へ行く道があったといわれています。少し脱線しますが、“塩硝”とは、火薬の原料で、一般的には「煙硝」とか「焔硝」と書きますが、加賀藩では幕府に対して秘密にしていたとかで、”塩“の字をあてて煙にまいていたという言い伝えがあります。


(土清水塩硝蔵跡 ;今の涌波堤公園辺りに、万治元年(1658)黒色火薬を製造する「塩硝蔵」が設置されました。越中五箇山独特の培養法で生産された塩硝を、「塩硝の道」といわれている山越えのルートで輸送し、辰巳用水を利用した水車で搗いて火薬を生産していました。)


市民が見つける金沢再発見-塩硝の略
(今の「朝霧台」と藩政期の「塩硝の道」・赤線は今は無い)


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(左側の丘を登ると土清水(赤い線))


幕末には、加賀藩では約560トンの火薬を蓄えていたそうです。その量は江戸幕府の約525トンより多かったといわれていますが、海岸線が長い加賀藩の領内を外国船の襲来から守るための備えだったのでしょう。なんと言っても“塩硝”の産地「五箇山」が領内にあり、独特な方法で塩硝を大量に生産ができこと、また、加賀藩の生命線として大量の火薬で幕府を牽制したという説もあります。


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(五箇山か土清水塩硝蔵まで「塩硝の道」)

“塩硝“を五箇山から土清水の塩硝蔵へ運ばれたルートは、五箇山赤尾谷からは西赤尾→ブナオ峠→刀利峠→横谷→湯涌→土清水塩硝蔵のほか、小豆谷、利賀谷からのルートもあり、純度の高い”塩硝“は金沢へ、その他は加賀藩から外へ販売するため宮腰湊(金石)に運ばれたと聞きます。運搬には、五箇山から担ぎ手1人が約45kgを担いで35km~40kmの道のりを当然ですが徒歩で片道2日かけて運んだそうです。


参考文献:「北國文華」30号(2007冬)発行北国新聞社など