兼六大通り裏小路、暁町の「あかつき屋」 | 市民が見つける金沢再発見

兼六大通り裏小路、暁町の「あかつき屋」

【常盤橋→鈴見橋間】
今は兼六園下から賢坂辻経由で鈴見橋まで、片側2車線歩道付きの立派な大通りになっていますが、昭和の中頃は、賢坂辻が材木町の通りに突き当たるとその先は、“軽四が一台ヤットコサの金沢らしい小路”が浅野川に向って幾小路も連なっていました。その頃、近くに友人が住んでいたのでよく歩いた記憶があります。


市民が見つける金沢再発見-あかつき①
(あかつき屋)

今は扇町とか暁町、一部は横山町と言いますが、越中町、御小人町、裏御小人町、森町、馬場崎町、九枚町、柿木町、火除町、銀杏町などなど、次から次に出でくる町名は、どれも旧町名の復活の対象になる城下町ならではの町名のような気がして書き連ねてしまいました。


市民が見つける金沢再発見-あかつき隣
(昭和の初め同じ大工さんが作った隣の洋館)

いつ頃“兼六大通り”が出来たのか全く記憶がありませんが、最近、「山側環状線」が出来てからよく通るようになりました。この大通りの出現により旧町名の町が分断され、しかも大通りから斜めに町並みが続いていて、歩いたら多分コンガラカッテしまうだろう~と思いながら、好奇心と閑に任せて歩いてみました。


市民が見つける金沢再発見-あかつき裏
(裏から見たあかつき屋)

扇町の武佐の広済寺さんの向かいの暁町に、80年くらい前になるのだろうか、昭和初期の町家を見つけました。角家で、かなり手とお金を掛けたのか、小奇麗に改築されていました。夏向きのブルーの暖簾が掛っていますが“何屋”なのかさっぱり分かりませんので、思い切って聞きに入りました。


市民が見つける金沢再発見-あかつき看板
(板壁と奥さんが書いた書体の看板)

今年の1月に開店した“素泊まりのお宿「金沢町家ゲストハウスあかつき屋」と言うのだそうです。兼六園も金沢21世紀美術館、ひがし茶屋街にも徒歩圏内、お部屋貸しでリーズナブル、しかも畳とふすまの和室ばかりで日本情緒が味わえるということか、イタリヤ人やタイ人のお客様がいらっしゃるとか・・・。


市民が見つける金沢再発見-あかつき表

地元の人も知らないのに、外国人のお客様があるのです。インターネットだけではない、目に見えない企業努力があるのでしょうネ。
詳しくは、私が書くより,マメに更新されているネットをごらんになられたら如何でしょうか。


市民が見つける金沢再発見-裏面

www.akatsukiya.jp/kanazawa/index.html
www.akatsukiya.jp/
金沢町家ゲストハウス あかつき屋 [検索]
〒920-0926 石川県金沢市暁町21-18
TEL:076-255-0140 E-Mail:info@akatsukiya.jp


あかつき屋さんの向かいの広済寺さん
広済寺さんは、山号を武佐山と言い、一向一揆の時代に近江から尾山御坊(金沢御堂)の看房職として本願寺から派遣された江州広済寺10代厳誓坊祐念の2男祐乗が初代で2代祐念に引継がれています。
(江州広済寺(滋賀県近江八幡市)は、聖徳太子の勅命によって創建せられ、寺号は経文の「広く衆の危難を済(たす)く」からとったものだそうです。)


市民が見つける金沢再発見-こうさいじ
(向かいの広済寺さん)


天正8年(1580)、織田信長の命を受けた柴田勝家軍の先陣佐久間盛政のため、尾山御坊(金沢御堂)が陥落しますが、その後、3代祐盛は逃れて内川郷の山中に難を避け、3代、4代祐玄は村民と共に宗門を守ります。寛永17年(1640)の5代祐益の時、加賀藩3代藩主前田利常公から安江郷に寺地を、次いで現在地を賜って移転したと言われています。

武佐山広済寺 金沢市扇町12-21 TEL:076-61-4609 


市民が見つける金沢再発見-酒屋

(兼六大通りにある近くの酒屋)

金沢のお寺の坊守さんでした作家の井上雪さんの「金沢の風習」に、明治11年(1879)、現在の尾崎神社の改築の折、土中から阿弥陀仏の六幅の絵像が出たと書かれています。と言う事からか、一向一揆の時代に、そこに武佐の広済寺初代祐乗の看房が有ったという説があります。


市民が見つける金沢再発見-あおき
(あかつき屋の裏にある"クスリのアオキ”)


また、金沢の“武蔵が辻”の名前の起こりにも諸説ありますが、その中の一つに、広済寺初代祐乗が近江の武佐から移って来たのが現在の“武蔵が辻”のところだというので「武佐の辻」と言ったという説もあるそうです。


市民が見つける金沢再発見-けんろく
(兼六大通りで見かけた昭和の住宅)

参考文献:井上雪著「金沢の風習」金沢町家ゲストハウスあかつき屋www.akatsukiya.jp/ 武佐山広済寺のパンフレットなど