泉鏡花①記念館 | 市民が見つける金沢再発見

泉鏡花①記念館

【浅野川大橋→中の橋間・下新町】
泉鏡花記念館は、鏡花出生之地に平成11年(1999)11月に開館しました。
鏡花の作品および関係資料などの収集展示、鏡花の人物像を紹介し、鏡花のロマンと幻想の世界を知ることができます。

市民が見つける金沢再発見-鏡花記念館

(大学の先生だった青山館長は、時々、前庭に出られていて、お声を掛けると、お話が聞けることもあります。)

市民が見つける金沢再発見-親子像

(前庭にある鏡花父子像・子供が鏡花です。よく早トチリで、大人の方ほうが鏡花だと間違えられています。)

鏡花の生家は、現在、下新町の通りに面した土蔵の位置で、19坪の町屋だったといいます。
正門には、昭和22年(1947)に泉鏡花顕彰会によって建てられた「泉鏡花先生出生之地」の石碑があります。

市民が見つける金沢再発見-生誕地

(門の前の出生之地を示す石碑)

鏡花の江戸弁
鏡花は金沢生まれですが、まるで江戸っ児のような言葉遣いを身につけていたと言われています。
それは鏡花の母親の鈴によるものだそうです。鈴は安政元年(1854)に江戸で生まれ、慶応3年(1867)能楽師(葛野流大鼓)だった、鈴の実家中田家が一家を上げて金沢へ移住します。鈴が13歳の時でした。

17歳の時、鏡花の父清次と結婚し、2年後の明治6年(1873)に鏡花が生まれています。しかし明治15年(1882)、母・鈴は9歳になる鏡花を遺して他界します。

それでも鏡花は、 物心がつく3歳頃から9歳まで、母親の江戸言葉をもっとも親密な言葉として聞き育ったのだろうと思います。

今と大違いで、マスコミや電話もなく、鉄道も通じていなかった金沢にあって、金沢の他の子供達と違い、鏡花は、江戸弁と金沢弁の中で育ったという事になります。

後年、鏡花の話し言葉は、「東京人よりも東京人らしい」調子だったといわれているのは、ほかにも理由はあるのでしょうが、幼児体験から得た影響も大いにあるのではないかと思われます。