北国第一劇場にあった緞帳は加賀友禅か! | 市民が見つける金沢再発見

北国第一劇場にあった緞帳は加賀友禅か!

【梅の橋→浅野川大橋間】
北国第一劇場にあった緞帳・・・・・・そういわれると、「あっあれか!」といいたいところですが、まったく記憶にないのです。当時、余裕が無くて映画しか見なかったのだろうネ。
それがまた加賀友禅の「中興の祖」ともいわれる人間国宝だった木村雨山さんのデザインだと聞き、またまたびっくりしました。

エジプト風の図柄は、私の頭の中の雨山さんの作品群にはまったくありません。雨山さんの作品は加賀友禅以外にもかなり見ていたつもりでしたが、まったく想定外のデザインでした。
友人からこの写真を見せられた時は信用できなくて、何回も問い直し、まだ、ちょっぴり疑っていたりして?でも凄い先生は“何でも描けるのだ”と驚いています。

市民が見つける金沢再発見-緞帳

今は、金沢工業大学の酒井メモリアルホール2階の国際会議室に掲げられているそうで、機会が有ったら是非見たいと思っています。

木村雨山師のこと
明治24年(1891)2月21日-昭和52年(1977)5月9日
金沢市生まれ、本名木村文二(きむら・ぶんじ)。
加賀友禅はぼかしを採り入れた絵画的な作風を特色にしているが、木村雨山師は写生による図案をもとに制作を行い、日本画の技法を駆使して、宗達(そうだつ)・光琳(こうりん)風の濃淡の色調を巧みに表現した。日本の伝統的な美意識を写生調の図案に託し、大和式の意匠構成を現代的感覚でまとめた優雅でみずみずしい新境地を開拓した。

重要無形文化財保持者 昭和30年(1955)認定
昭和9年(1934)帝展特選、12年(1937)パリ万国博覧会銀賞。29年(1954)第1回日本伝統工芸展に出品以来、同展で活躍。30年(1955)日本工芸会理事就任。51年(1976)勲三等瑞宝章。

戦時中、昭和15年(1940)の奢多品等製造販売制限(7.7禁令)により衰退した加賀友禅が、戦後いち早く復興出来たのも、師の影響力抜きには考えられない。


加賀染考
金沢では15・6世紀頃、梅染、黒梅染が行われ、兼房染、色絵染、加賀染、赤根染などがあって、地元では「お国染」と称して、他国では「加賀染」といいならわして、もてはやされた。それ後、宮崎友禅斎によって「友禅染」も行われるようになった。

友禅斎
正徳2年(1712)60歳で金沢に帰郷し、三世紺屋棟梁太郎田屋与右衛門に寄寓する。友禅斎は、享保5年(1720)世話になったお礼に与右衛門の倅茂平に染軸の制作指導をしたといわれている。現在、東京の国立博物館蔵の「紫式部石山寺観月図」は茂平の作者名および年号がある。日本で一番古い友禅染といわれている。従来の加賀染に友禅斎によって京風を教えられ、金沢では加賀友禅が染められるようになった。

茂平は後に、四世太郎田屋与右衛門を名乗る。

友禅斎の金沢伝説
太郎田屋(長谷田家)の口伝によると、かっての所領穴水から一人の百姓の子が訪ねて来た。以前の領主をたよって金沢に働き口を求めて来たのである。
この少年が太郎田屋に弟子入りし、紺屋技術を習得して一人前の職人に成長したのであるが、元来が手が器用で絵心も有り、加えて卓抜した図柄などを発明する才覚があった。この太郎田屋にやって来た百姓の子が「もち米の粉」をのりに使って輪郭のはっきりした図柄を見事に染め出す画期的な染法をあみだしたのである。後、29歳の時京都に出、やがてこの新しい染色法が京都に広まったといわれている。

京都での友禅斎は、扇絵師として流行の波にのり「友禅ひいながた」が版を重ね有名になったと伝えられている。
金沢に戻ったのは60歳の時、太郎田屋の二世(正徳6年(1716)没)が迎え入れ、三世、四世(茂平)そして五世も引き続き迎え入れる。太郎田屋の口伝では五世が一番友禅斎としたしかったと伝えられている。

市民が見つける金沢再発見-友禅碑
(「京の事・・・・・」の碑)

晩年は、紺屋棟梁亀甲屋亀田輿助の横小路に住み、蕉門の十哲の一人立花北枝に6年間、俳句を学び、
”京の事 また口に出る 余寒かな“
という句を残している。
また、享保3年(1718)北枝の死に際しては追悼句
“過し跡 さみしさますや 時鳥“
“絵に描いた 梅にもほしき 匂いかな”
がある。
 
金沢出身の俳諧師竹内利道更隣という人の手控帳“花の屑”に「木町鳥居キハ宮崎友次染絵カキ元文元年六月八十三歳夜九ッ時」と書かれていて、それが事実であるとすれば元文元年(1736)6月83歳で亡くなった。

宮崎友禅斎は、禅を信仰し、生涯妻帯せず独身だったという。太郎田屋の口伝では友禅斎23回忌に龍国寺に太郎田屋によって墓碑が建てられた。墓碑には「友禅斎自超上座施主太郎田屋月牌」と刻まれている。

市民が見つける金沢再発見-墓2
(龍国寺の友禅斎のお墓)

この墓碑については、大正時代、加賀友禅の販売促進を計画した三越デパートが、墓の捜索を開始。墓は金沢の文人細野 燕台(ほそのえんだい)氏によって1920(大正9)年、発見された。寺の入り口、坂の途中にある友禅斎の石碑には、三越の名が刻まれている。

市民が見つける金沢再発見-龍国寺の鳥居
(友禅斎のお墓や碑のある龍国寺の鳥居)

参考文献:加賀染太郎田屋与右衛門 高桑砂夜子著 橋本確文堂 平成3年3月刊
     石川新情報書府http://shofu.pref.ishikawa.jp/