さて2002年にそれまで積み上げて来た会社員としての仕事も、知り合った多くの友人もかなぐり捨てて今の住所へ引越して来た親子3人。

夫37歳、私46歳、息子は9歳でした。

あまりのキッチンやバスルームの古さ/ボロさに唖然として涙ぐんでいる私に夫は10年だけやらせてくれ、ダメだったらまた都会に戻ってやり直す、まだ47歳だからやり直せると言いました。

あんたは10年後47歳かも知れないけど、私はどうなる⁉️

近くの小学校はヨーロピアン(白人)かマオリ系(NZ先住民)の子供しかいなくて、小学校初の日本人だった息子はどんなに不安だった事でしょう。

私達は仕事を覚えるのに必死で息子の心配をする余裕もありませんでした。息子は息子で新しい学校/環境に慣れるのに必死でした。

意地悪なニックネームを付けられたり虐められたりもしたようですが、夫から習う護身術や7歳から習った空手のおかげで、温厚な性格ですがケンカになったら自分よりずっと大きい相手でも負けません。

それでウンチと名前がミックスしたひどいニックネームから「スモウ」に変わったようでした。少しだけマシ❓

ビジネスを始めた時、既にここでマネージャーをしていた62歳だった女性を引き続き雇用して技術を教えてもらっていました。

この人はヨーロッパのある国からの移民で家族も無くひとり暮らし、仕事とお金が全てという人でした。

週7日仕事にやって来ます。朝起きると7時にはもう彼女の車が停まっていて、お給料の支払いの係だった私は気分が落ち込みました。

いくら時間を減らして欲しいと頼んでも、ここには自分が必要でこのくらい働かないと売り上げが上がらないの一点張りでした。

私はその頃更年期に向かう辛い症状が出ていた上、日本の母もとても具合が悪いと知っていたのに、帰国する時間もお金も無くて、泣きはしなかったけれどいつも泣きそうな気分でした。

その人は私達が世間知らずのお人好しだと思って1ドルでも多く払わせようとしていました。

もう運転資金も底を尽き、夫は2年近く頑張って彼女を雇い続けていましたが遂になけなしの2000ドルをキャッシュで渡して会社を辞めてもらいました。

彼女は泣いていたそうですが、あんなに欲張らなければ今だって、身体さえ元気ならパートで来てもらえていただろうに。

これに懲りて私達がフルタイムで人を雇う事はそれ以降ありませんでした。今は夫を中心に息子が週2-3日働き、後は時々業者を入れて仕事を回しています。

10年と言っていたのが、18年経ちました。
農業なのでコロナの影響も無く仕事に支障は出ていません。

数え切れない苦労の結果辿り着いた今の暮らしは、のんびりと穏やかで、あの時小さな息子を連れて都会を離れる決心をしたのは間違って無かったと思います。

今日も息子が来ているのでそろそろ3人分のランチを作りますね。

これは8月(真冬)の写真ですが、仕事の指示を出している孫です。後ろは息子。