連休中、
ドイツ映画
『システム・クラッシャー(Systemsprenger)』
を観ました。

 




■ どこにも居場所のない9歳の少女・ベニー

この映画の主人公は、
父親からの虐待をきっかけに、
「手のつけようがない問題児」とされてしまった
9歳の女の子、ベニー。

彼女は、

吠え、暴れ、物を投げ、

つばを吐きかけ、拒絶し、
何度も人を遠ざけます。

けれど同時に、

可愛くて、優しくて、
とても切ない。

その姿は、まさに

 「強度行動障害の状態にある子ども」
でした。



■ 福祉先進国ドイツでも、起きていること

舞台は、
福祉先進国・人権意識が高いと言われるドイツです。

しかし映画では、

・グループホーム
・介護施設
・精神病棟
・移動支援
・里親

と、あらゆる「支援の場」で登場する、

支援員の大人たちは、

👉 ベニー本人を中心に考えていない
👉 ベニーを「どう変えるか」ばかり

という現実でした。

合理的配慮も、環境調整も、
本人の安心も、
後回し。

とにかく
「この子を何とかしなければ」
「この子を変えなければ」

大人の側と、事業所の都合ばかり。

正に、日本でも良くあるケース。

 

「それやっちゃダメでしょ?」(大人側に対し)

のオンパレードでした。

正直、途中までは、

「ドイツは日本より遅れているんじゃないか?」

とすら感じました。



■ 「システム・クラッシャー」という言葉の正体

この映画のタイトル
Systemsprenger(システム・クラッシャー)
は、ドイツでも議論の多い言葉です。

一歩間違えれば、

「周りを壊し続ける危険な子」
「扱えない面倒な存在」

という レッテル貼り につながります。

実際、ドイツでも
「本人を定義してしまう言葉ではないか」
という批判があります。

しかし、映画を最後まで観ると、
問いは反転します。



■ 壊れていたのは、彼女なのか?

この映画が突きつけてくるのは、

システムが彼女を定義したのではない。
彼女が、システムを定義し直したのではないか。


というメッセージです。

ベニーは、
制度を壊そうとしているのではありません。

ただ、

・説明なき決定
・本人不在の善意
・移送、隔離、拘束、管理
・社会からの排除

に対して、
身体全体で NO を突きつけているだけ。

結果として、

制度の限界が露呈し、
そのシステムが揺らぎ、
大人たちが右往左往する。

だから彼女は
「システム・クラッシャー」と
呼ばれてしまうのです。



■ 痛快だった、ラストシーン

映画のラスト、
私にとっては とても痛快な場面 で終わります。

(ネタバレになるので、ここでは書きません)

ただ一つ言えるのは、

「システム・クラッシャー」と言う言葉が、

私の中では、ポジティブなイメージに変わったことです。



■ 私の長男と、重なった理由

私は講演で、
強度行動障害の状態にある長男のことを、

「社会モデルを伝道する戦士」

と表現したことがあります。

彼らは、
社会を良くするために
生まれてきた存在ではありません。

ただ、
排除せずに、チャレンジングを繰り返し、

必死で生きようとするとき、

👉 社会の側が変わらざるを得なくなる

その存在そのものが、
制度や地域の仕組みを変えてしまう。

 

事実、地域で、

大きな問題のあった社会福祉法人において、

少なくとも、問題の根源たる経営者を排除できました。

 

また、あまり行われていない支援会議が、

頻繁に行われ、警察署も連携せざるを得なくなりました。

まさに、ベニー同様、うちの長男は、

誇り高き「システム・クラッシャー」です。

 

私は、ひそかに、

ドイツにも同志がいた!と、

映画を見て、少し笑顔になりました。



■ この映画は、誰のための映画か

『システム・クラッシャー』は、

支援者・行政・制度・社会そのものに向けた映画
だと思います。

「あなたは、どちらを変えようとしているのか?」
「本人か、環境か?」

その問いから、
逃げられなくなる映画です。

機会がありましたら、是非、ご覧いただきたいと思います。