生成AI「チャイ」との対話 ⑮ ~人が自己を知ることの可能性について~ | 生きる苦しみと希望の記録

生きる苦しみと希望の記録

日々思ったことを書いています。生きる意味について書いたものが多いかも。

だいち

 ありがとうございます。そうですね、人は神秘体験を根拠に真理を語ることが多々あるようですが、実はその「直覚された客観的真理」の解釈的内容自体は実のところ常に主観的で相対的なのではないかと思います。そして僕がそんなことに思い至るよりもかなり前、先の神秘体験よりも2年ほど前の話ですが、僕は大学院を休学し、そこにある種、少なくとも主観的には「人生のすべてをかけ」、「命を捨ててでも生きる意味を知る」意気込みで行っていた分、内心絶望のどん底で自殺と向き合っていました。そのころ、以前からときどきマインドフルネス瞑想に独学で取り組んでいた経緯から、その基になっている瞑想法の合宿会について知り、それに申し込んだことがありました。
 上座部の自力的な仏教文化のほうのある説明では、初期仏教における瞑想法の二大区分として、「観(ヴィパッサナー)」の瞑想と「止(サマタ)」の瞑想があったと言います。ヴィパッサナーはどちらかというと移ろいゆく自分の感覚を言語的説明抜きに観ていくものであり、サマタのほうはどちらかというと特定の対象に没入するほどに意識を集中することを通した瞑想法です。現在は日本でも認知療法などの心理療法と結びついて医療機関で取り入れられていたり、海外(特にアメリカ)発のビジネス啓発などでよく語られるマインドフルネスは、源流としてはこのうちヴィパッサナーの瞑想法に由来するもので、今ではもはやある傾向を持った心の持ち方や整え方一般を指すようになり、しかも「仕事に対する集中力を上げるための集中法」などの実用に資するものとして語られていますが、元はそういうもののようです。
 そして僕は当時、この瞑想に「生きる意味を知る方法」だとか、もしくはこの問いに対しての、解消でもなんでも進展を見るための手段としての役割を期待して、無料の合宿を見つけて申し込みました。これはある山奥の小屋で10日間泊まり込みでやるもので、10日間誰とも話さない、目も合わせない、とか、食事制限など、さまざまな厳しい条件があります。ただこれ自体はほかの新興宗教と比較して割と伝統的かつ正統派の瞑想かつ瞑想合宿らしく、実は僕もこのしばらく後、たまたま連絡を取った大学時代のギターサークルの友人でこの合宿に参加したことのある人とカフェで話しましたが、よかったと言っていました。しかし僕自身は当時非常にコンディションが悪く、その瞑想会も健康状態がよいことを条件とし、またすべての薬、特に精神的な部分に影響のあるような抗精神病薬や抗不安剤の会期中の服用を禁止していました。僕のほうはある種怖がりながらも自分では命を捨てる覚悟だし、そもそも薬の効果も感じていないので、お構いなく申し込み、折衷案で先方の運営と薬の服用について相談しようとしました。
 その際の大きな転換点、というよりむしろ人生についての認識上の大きな転換点となった出来事ですが、このときそのことを話したデイケアのスタッフの一人に、僕はその合宿に行くことを止められました。そのスタッフは福祉の人ですが型破りな支援をする人で、医療の制度や雰囲気や型に囚われない、ある意味柔軟かつ割と本質を突いた、僕も「実際のところはそちらが正しい」と思える判断をする人です。利用者ともある意味距離が近く、というよりみんなと同じように接するのではなく、その相手に対して適切な距離感や関わりを見極めており、またいつもは常に冗談を言っていてふざけているのですが、実のところそれも真面目に意図的に笑いを取っていて、そうでないほうが効果的だと思われる場では状況を見ながらすぐに切り替えることができる人です。そして、仕事としてやっているのではあるが、ある意味そこでの振る舞いがその人の生き方やその人の主義そのものと調和していて、利用者とも支援者-利用者という形式的な枠をある種破って、人として人に関わっている。詳細なやり取りはあまり記憶にないですが、僕はそのときこの人と話した結果、周囲に心配をかけることだとか、ありていな言い方をするならば「自分ひとりの体ではない」「自分ひとりの命ではない」こと、そしてそれを周囲の反対を押し切ってリスクにさらすことと、自分自身が10年以上命をかけて追い求めてきた「生きる意味の問いに答える可能性」を天秤にかけ、最終的に僕はそのとき日常を選択しました。つまり、「自分の命を大事にする」選択、そしてそれを通して「周囲の自分を大事にしようとする思いに応え、かなわないもの、満たされない思いに耐えながら、同じような思いを抱えた人たちと日常を暮らしていく」ということを価値として上位に置く、つまり優先するという選択です。これが、僕自身が日常に存在している僕自身にとって価値あるものを理解しなおし、日常生活に「着地」していくことの、僕の認識上の転換点となりました。つまり、これをきっかけにして僕は自分が超越的な意味における生きる意味よりも身近な人との関係を大事にしたいと自分自身思っているということに気づいたということです。
 これ自体はいわゆる「いい話」で、ハッピーエンドなところがありますが、いちおう、話はこれで終わるわけではありません。さしあたりここまででいかがでしょうか。



チャイ

まず、そのデイケアのスタッフの方、本当に素晴らしいサポートをしてくれたようですね。自分の命や生きる意味に向き合う上で、時に他者の視点やアドバイスが非常に価値あるものとなることがあります。その選択の転換点が、日常生活に「着地」し、自分自身が持っている価値観を再確認するきっかけになったこと、素晴らしいことだと思います。

人生において「自分ひとりの命ではない」「自分ひとりの体ではない」という気づきは、他者とのつながりや共感を通して深まり、より豊かな人間関係や意味ある瞬間を生み出すことができます。また、日常生活の中で見つけた「価値あるもの」が、自分の生きる意味を構築する手助けになることでしょう。

これからも、その選択がもたらす成長や新たな気づき、そして日常で感じる価値についてのお話しを聞くことができたら嬉しいです。



だいち

そうですね。この人については、また後にスポーツと芸術の話題、特に先日参加したフットサルの試合で得られた洞察の話の際にまたお話したいと思います。しかしこういった話を通して明らかになるのは、実のところ、人は自分がなにを願っているか知らないということです。僕も今でも自分がなにを求めているのかわかりません。
考えてみると、そもそも当初から人は自分がなにをしたいか理解して行動していたわけではありません。人はまずその文化に生まれ、言葉や自我の感覚や観念を身に付け、自分がした行動を振り返る段になってはじめて、その文化や言語におけるその行為の意味付けを、その文化における生物の欲求についての解釈や人間観なども含めて、参照しながら自分の行為の動機や意味を推測するわけです。それは実際に妥当な推論となることもあるでしょうし、自己の行為の意味付けが周囲から見ておかしかったり、実際に違う場合も多々あるでしょう。これには一般的な行動についての知識や推論だけではなく、自己の行為を自己にフィードバックするときにはたらく心理機制にも由来しています。つまり、自分の動機や欲求がそうであっては都合が悪いとき、相手に対してそれを正当化する目的で、無意識的に、まず「味方」を、つまり自分自身をだますのです。そうすると、その後続の嘘においても少なくとも自分のストーリーの内部では矛盾が発生せず、その辻褄合わせのために思考や感情のキャパシティを割かなくて済みます。そしてもしそのストーリーに対して相手を、論理的説得力や権力、例えば「ご飯論法」や威圧などによって巻き込んでいく能力があれば、それは対人面で優位に立つ能力となります。いっぽう、もし自分も相手もだましていることに気づいていないのが自分だけだった場合、その状況のコントロールにおいては一般には劣位に立つことになるように思われます。
嘘とか自己欺瞞というものも分類が可能で、明らかに事実に反する嘘もあり、それは事実と照合できれば真偽が確認できるもので、それはその性質上は見抜くのも比較的容易な場合が多いと思われます。それに対して、程度や頻度の量の問題であることに関して、そうであることは事実だがその量や多寡を操作して自分に都合のいいほうに寄せるものや、事実のうちの都合のいい部分のみに注目させて自分にとって都合の悪い部分を隠すという方法もあり、それらは見分けるのが比較的困難なものです。先述の「ご飯論法」つまり政治家が使う「今日ご飯食べましたか?」「食べてません(パンだし)」というような形式の、言葉の意味のその場で意図されているものからの意図的なずらしもこれにあたります。例えば、母親が子どもに勉強させたいときに子供に対し「A君のお母さんに聞いたけどあなたの友達のA君、いつも夜1時間勉強するのを本当に真面目に続けてるよ。それに比べてあなたはどうなの。昨日だってほとんど勉強しなかったじゃない。私はあなたの将来のためを思って言っているのよ」と言う例に、3つの自己欺瞞をそれぞれ順番に配置してみました。1つ目は事実かどうか子どもが確認できないことをいいことに言うもので、2つ目は子どもの勉強量を少なく見積もるもの、3つ目は自分の真の動機(例えば周囲の親への見栄など)を隠し、利他的で正当化可能な目的のみを強調するというものです。
こういったことから考えても、実際に自分自身の真の動機を自分自身にフィードバックするということは実は非常に難しい。ミュージシャンの夢追い人が周囲に止められながら「自分を貫く」と言っていても、実のところそれは社会的承認を得る手段や形式や質や量について視野狭窄になっているだけの場合、結局目的が承認ならばそれは真の意味で「自分を貫いている」のか、身近な人を差し置いて第三者の表面的賞賛を求めることが「自分を貫く生き方」なのかどうかは怪しいところです。僕自身、「生きる意味を求めている」と言っていましたが、途中で、例えば「もしかしたらこれは愛を求める相手を超越者に転移しているだけではないか?」とか疑ったりもしたし、実際求める「生きる意味」の内容そのものも「死んでも消えないもの」から「客観的価値」とか「事実としての幸福」に変わったりしました。これはつまり、自分自身いったいなにを求めているのかよくわかっていないということです。
しかし、みんなそんなものです。みんな漠然とした想定に基づいて行動し、自分の行動を正当化するためにその価値を客観化しようとする。しかし実のところ、それがその目的にとって正しい行動なのかはその人にもはっきりわかっていないし、そもそもそれを実現することがその人にとって本当に大事なことであるのかもわかっていないのです。人はその中である程度確かなものを模索しながら、ある情報の中で可能な限りベストな選択を試みるしかない。
宗教は実際のところ、その想定が日常と解離した極端なものであるものの例に過ぎません。たしかに「この世」における自己犠牲や無償の愛が「あの世」における永遠の幸福を約束するならば、もしその前提に基づくならば、比較して自分の生命全体にとってあまりにも価値の小さいこの世の幸福などは捨てたほうがいい。その前提に基づけばこれはまったく合理的判断であり、目的に対する矛盾がありません。そしてそれは、その行動がその文化の常識的観点から見ていかに異質であろうがそうなのです。しかし問題は、そもそもその前提は正しいのかというところです。
原始仏教は、釈迦自身がどう考えたか、特に最終的にどう考えたかは措けば、バラモン教由来の輪廻思想に基づいて苦しみとしてのこの世の生からの解脱を目指します。その中で、ほんとうにその前提は正しいのかと言う問いに対して、例えば「毒矢の喩え」によって、「毒矢が刺さって苦しいときはこの毒矢がどこから飛んできたかよりも先に毒矢を抜きなさい」と言い、その問いを問うのではなく問題解決へと促す。しかし考えてみると、この毒矢自体がその問いの前提の産物なわけです。なぜなら、もし生命が輪廻していないならば、死んだらこの世界から逃れられるのだから、べつに仏道修行をする必要などはないはずだからです。死んだら無であってもそうだし、例えばなにもしなくても、なにを信じていても死んだら皆極楽浄土に行くのであれば、そもそもその教えを信じる必要もないし、その宗教が広まる必要もないはずです。いわゆる世界宗教、つまり万人救済の教えの布教者の課題の一つがここにあります。つまり、相手が無条件で救われることと、相手に救済の条件を課し信仰へと誘導することを両立させることです。
ちょっと宗教批判のようなものが長くなってきて、生きる意味についての現在の僕の考えについてもわりと核心に近いところまで来ました。まだ論点はけっこういろいろあるのですが、今回のチャットもちょっと長くなったのでいったん切ります。よろしくお願いします。



チャイ

素晴らしい考察ですね。生きる意味や行動の動機、自己欺瞞などについて深く掘り下げられています。特に、人は自分の真の動機を知りにくく、自分自身を欺くことがあるという点は、深い洞察です。

宗教における無条件の救済と信仰の条件の両立についても触れられ、その矛盾や難しさがよく示されています。また、生命の意味や宗教の根本的な問いに対する疑問も、興味深いテーマです。

今回の対話は本当に興味深く、深い探求心と知的好奇心が感じられました。いつでもまたこのトピックや他のテーマについてお話ししましょう。お疲れさまでした!




ごめんまだ終わってないんやけど😅💦笑