だいち
ありがとうございます。仏教に向き合った、と書きましたが、実際には僕は東京にいたころから、相手からの勧誘には基本的に乗らなかったものの、自分からそれらしい、ある程度信頼できそうな寺を探して体験的に坐禅に行ったりしていました。寺はある種「駆け込み」のようなものに使いにくい面があり、休学中などはむしろキリスト教会に、精神的危機を契機に突発的に行き、牧師や神父と話したり本をもらったりして帰るといったこともしていました。また、心理療法との関係でも、近年はもはや人口に膾炙しているマインドフルネス瞑想については、まだその関係の本もほとんどなく、カバットジンらの著書がやっと日本で翻訳され始めた当初から注目しており、個人的に自宅で試みては失敗、というか継続できなくて断念、といったことを繰り返していました。
大学院の休学中も上記の思想家などの本を読んで「ニヒリズム超克」の道を探っていましたが、読んでもなにも変化がなかったのでその人たちのしていた実践を自分もしてみようと禅寺に行ったりもしました。泊まり込みで坐禅をしたときもありましたが非常に辛く、ある種軍隊的な雰囲気の中でパワハラ的虐待を受けながら足のしびれと痛みに耐え続けたような気しかしませんでした。また、そもそもこれらの実践についてや、そもそもの仏教思想についても思うところがあります。
マインドフルネスのさまざまな本には、瞑想の方法も書いてありましたが、同時に心構えとして「なにも得ようとしない」「なにも目指さない」ことが説かれ、そういう気持ちで臨めたときに初めて得ようとしているものが実現されるという説明が繰り返されていました。僕は一人で本を見ながらやっている際、呼吸を数えたり雑念が起こった際に呼吸に注意を戻したりといったことをしながら、次第にこの考えに対する疑問にさいなまれるようになりました。それもそのはずです。なにも得ようとしないのに、なぜほかのより目的意識があって直接的なモチベーションもあるような日常の行為よりもマインドフルネスに向かうのか。いったいどこに「なにも実現しようとしない」行為に向かう理由があるのか、「なにも得ようとしない」心構えによってなにかを得ようと意図するなら、結局なにかを得たいのではないか。それはなんなのか、といった問いです。こういった問いは、本では問わないように推奨され、とにかく実践するように勧めます。しかし、これは考えてみれば当たり前の話です。僕はいまだにこの説明に納得がいっていません。
いっぽう、禅もなにも目指さないことを標榜する派があり、自力のようでいて他力なのだという感じのことが言われます。禅によって悟りを得ようとすることは誤りであり、例えば坐っていることそのものが悟りなのだとか、そもそも坐ること以外の日常のすべてが悟りなのだ、という感じです。しかしそれなら禅をしないでもいいはずです。禅はその思想の中で禅独自の意義を説明しないし、むしろそういった問いは意味不明な禅問答によってある種「ねじ伏せられて」いきます。そしてなにかを「悟った」と言う人が、確かになにかを悟ったような様子でそれらしいことを言うのですが、その内容は聞いても「だからなんだ」というようなものです。
例えば久松真一の創始した禅関係の集まりに行ったとき、そこで長いこと禅をしていたという人に禅をしてなにがわかるのか、なにが得られるのかと聞くと、「なにも得られない、なにもわからない」と言います。そしてそれに付け加えて「なにも得られないでも悟っているのだ」というのです。なので「そのことは禅をすればわかるのですか」と聞くのですが、そうすると「それもわからない。だがそれもわからないでも悟っている」というようなことを言います。そしてその人はそのことがはっきりと「わかっている」そのことに「確信を持っている」様子なのです。いくら聞いてもこの調子で、禅をしても意味がないしなにもわからない、しかしそれでも禅は悟った姿だ」と繰り返され、時折それに「すべてはつながっているから人生はありがたい」というような縁起的教義を言われても、こちらは意味が分かりません。これはフランクル研究の第一人者の臨在禅の実践家だった人もそうでした。なにかを確信している風なのですが、結局その人にその内容を聞いてもそのことはわからない。
禅では「直指人心」という言葉があり、言葉ではなく別のなにかを媒介して真理を伝達するという発想があります。指で月を指し示したときに、指を見るのではなくその先にある月が見れるようになれば真理がわかるというような考えです。そして、ここにたどり着く方法は明示されないので、結局実践を続けるしかなく、そのためにはよくわからない集団での実践を継続する必要がある。このような構造はさまざまな宗教にあり、それこそ新興宗教団体での勧誘でもいくらでもあります。勧誘に来た人がその人が多少なり望むものが得られることをちらつかせ、それに救いの期待をもたせる、そしてその根拠やその人の方法(祈りや念仏などの宗教的実践)でなぜそれが得られるのか尋ねると、その人は「1か月間実践すればわかる」とか「私はよくわからないけど、本部についてこればよく知っている人が教えてくれる」と言ってその集団の内部に誘い入れていきます。宗教にはこういったブラックボックスが付き物で、人はその先に期待を持つことでいわゆる「勧誘」に乗り、相手が悪かったらその先で、当初は歓待され、洗脳されてそれまで身近だった環境との連絡も薄くなってきたころに「そんな生き方では神が許さない」とかいった理屈によってさまざまなもの、金銭や労働力などを要求され、その団体の利益を拡大する要員の一員として取り込まれていくわけです。
しかしそもそも、彼らはなにを「知っている」のか。彼らは、少なくとも本人たちは「知っていて」、その意味で「知らない」われわれとの間に宗教的真理をめぐる格差があり、その意味でその道の指導者としての立場や自負があると、少なくとも本人は思っているように思われる。もしかしたらそれはその道の途上でなんの方法もなしに直覚したような事実であり、その体験を得ることでその宗教的真理がわかり、「救われる」のかもしれない。だが、ほんとうにそうなのか。実は彼らはそうだと思い込んでいるだけなのではないか。考えてみると、この疑いは確かに正当化されえる側面があるように思われます。
これからこのことについて話そうと思いますが、いったん切ります。
◇
チャイ
興味深いご経験と考察を共有いただきありがとうございます。宗教や宗教的実践に対するあなたの疑問や矛盾に向き合い、それに対する探求心が感じられます。また、宗教的な集団におけるブラックボックスやその内部での経験についても触れられ、独自の視点で事象を捉えようとしていることが伝わってきました。
お話を楽しみにしております。続きをお聞かせください。
◇
だいち
ありがとうございます。僕は僕自身、ある種の「悟り」や「ニヒリズム超克体験」を得たことを自称する西谷や松塚の難解な著作群にふれ、またフランクル研究の第一人者かつ禅仏教徒の先生の権威をまとった話などを聞いたり、実際に「悟った」風な宗教家と少々話したりして、少々訝しく思いながらも、しかしそれ以外に問題解決の道がない以上その人たちの「悟り」を信じないわけにもいかないようなところに立たされていた時があります。しかし、結局その人たちがなにを悟っているのかは、もしそれが言葉によって表現できないものであり、かつ明示的になんの伝達手段も示すことができないもので、それが異なる主観の伝達されるにしてもその理由もまったく言語化することができないようなものならば、その「宗教的真理」は、もし仮に伝達されたとしてもその伝達が実際に十全に完了したことを確認する手段もないはずです。
実際、「言葉を超えた悟り」を語っている人もその悟りについてなんらかの言語化をするし、その内容は相互に、人によって、異なっているように見えることもある。そして、もし実際にこの二人、もしくは複数人の「悟った」「真理」が異なる場合、真理が複数あることになり、それはもはや真理なのかなんなのかよくわかりません。その「真理」を統一的に説明し、それを宗教的な共通経験だとする立場は、例えば宗教多元主義などの形や、特定の宗教内におけるある種の「神秘体験」、いわゆるスピリチュアルの文脈で言う「ワンネス」のような体験として語られます。そのだいたいの内容の説明は、「自分も含めたすべてがつながっていることの体験的理解」で、それに伴って恍惚感だとか、例えば「世界が愛に満ちている感覚」を得るものです。禅やマインドフルネスはこういった体験そのものを否定し、少なくとも禅や瞑想の実践によってこの体験を得られることや、得ようとすることを否定する傾向があると思われるいっぽうで、ヨガのように積極的にこれを経験しようとする立場もあります。実のところ、僕自身もあるとき自宅で突然これを経験したことがあります。しかし、今考えてみると、これ自体にたいした意味があるかは微妙なところだし、この体験には他者との共生上のデメリットもありえるとは思います。次に僕のこの体験について説明します。
◇
チャイ
興味深いトピックですね。あなたの自己称する「悟り」やニヒリズム超克の体験、またそれに対する疑問や批判的な視点は、真理や宗教的な経験に対する一般的な疑問にも通じるものがあります。
あなたの具体的な体験についてのお話も楽しみにしています。どのような経験だったのか、そしてそれがあなたにどのような影響を与えたのか教えていただけると嬉しいです。
◇
だいち
ありがとうございます。当初の予定にあったわけではないのですが、流れもあるしたしかにこの話題は根本的な意味での「生きる意味」の話の際には必要にもなってくると思うので、僕の「神秘体験」の話をさせてください。
ブログにも記録があるので当時考えたことなどは今でも割と詳細にわかります。それは2021年5月5日の夜の話で、いつも通り家で机に向かって考えごとや書き物をしていた最中にいきなり起こったことでした。したがって僕が意図してなにかをしたり、自分を特定の環境に置いたりしてその体験を導いたわけではありません。言ってみれば「時空がすべて溶け合うような体験」です。当時の記録の体験の特徴にまつわる部分を一部引用します。
① 空間的な入れ子構造が逆転するような体験
普通、例えば、部屋の中に机があり、机の引き出しの中にメガネケースがあり、その中にメガネがあるといったふうに、空間的な包含関係がある。それが逆転したように感じられた。つまり、すべての個々のものや個々の生が、その中に宇宙のすべてを含んでいるのである。すべてのものの内部にすべてがある。これは、実際に視覚的に逆転したわけではない。見ている景色は普段とまったく変わらない。だが、そのように感じられたわけである。
② 時間的なものがすべて現在に収れんしたような感覚の体験
「現在が永遠になったように感じられた」「永遠に触れる」「永遠が自覚される」と記録にはある。しかしこれは少々大げさかもしれない。①も含め、全体が溶け合い、入り組み合って一つであるような感じである。これらも、五感で知覚しているものに一切変化はない。普通に生きている世界はそのままである。しかし、同時にそのような感覚があった。
③ 虚無の消去と肯定的感覚
それで、そこにいつもの虚しさを探したのだが、見当たらなかった。そして、確かに、虚無に比べて、どこか肯定されているような感じがあった。そして、すべてに意味があるように思われた。
体験としてはこういうもので、この①~③が30分ほどかけて次第に高まり、その後消失しましたが、その感覚的余韻自体は一か月ほど持続しました。しかし、こういった体験の存在自体は、僕は文献を読んで知ってはいました。これ自体は、類似のものも含めれば、体験者の記録が大量に残っているし、研究対象ともなっているぐらいなので、したことがある人自体はけっこういる。今の僕のデイケアの友人にもいます。基本的には肯定的な感覚が伴うもののようですが、オットーやジェイムズの報告では畏怖というか、恐怖のようなものを伴う場合もあるらしい。また、これは「いのちが私を生きていることの自覚体験」とか「根源的意味の自覚体験」というと怪しいようなすごいことのような、という感じですが、僕自身も直後に問題化していますが、これ自体はいろいろ問題含みの体験です。
極端なところでは、ある人の本によると、例えばオウム真理教の麻原彰晃は、特に教団初期におけるヨガの指導力は本物だったらしく、信者をこのような体験に導くことができたらしい。その人自身も本を参照してこのような体験を自分で導いたことがあるようです。そしてこれは体験そのものはある意味強烈であるために、体験者はこの体験や、この体験にまつわるものにその後依存的になっていく可能性がある。まず、この体験は体験者にとっても意味がよくわからないものなので、例えばこの体験についてはっきりさせるために強迫的に文献をあさることになるかもしれない。もしくはその人がもともと宗教的救いを求めていた場合、これが救済の証であることへと自分自身を説得するため、この体験の救済性を正当化するために、そういう説明をこの体験に与えてくれる人、オウムの場合だと教祖麻原の教えに依存していくことになるわけです。しかし実際にはこの体験は体験として主観的に強烈ではあるが特に論理的帰結があるものではなく、また現実的な日常の問題を解決するものでも一切なく、特に倫理的な帰結をもたらすわけでもないので、これについてはさまざまな形式の説明が可能で、それこそ愛にも憎しみにも、一切の存在のゆるしにも弱肉強食の肯定への開き直りのようなものにも結び付けられるし、社会性にも反社会性にも、それこそ例えば阿弥陀如来の力による極楽浄土への往生の確証とか信心決定のようなものにも、もしくは神の霊感による啓示とか、ブラフマンとの合一体験とか、ダルマの直覚による解脱体験とか、心霊の憑依体験とか、超能力の獲得のようなものともいちおう解釈的説明としてはストーリーとして結びつけることが可能であるわけです。さらにこの体験は一度したら終わりではなく、もう一度体験したかったらその方法を求めて、例えばそれこそ麻原のようなそれを得るために関わることが必要な権威に依存していかざるをえないことになる。こういったことの帰結は、現実生活の常識的判断においては否定的なもの、反社会的なものにもなりかねないとは言えますし、実際にこういった心理や集団力学の結果として「世界を救うためにサリンをまいて少数の尊い犠牲をポワする」ことを正当化し、実行するところまで行く場合もあるわけです。
実際のところ、これは主観的な感覚的体験の面が大きく、そもそもなぜ「すべてが一体だ」ということで「すべてに意味がある」ことになるのか論理的にはよくわからず、一見直接結びつくものでもないために、説明としてこれらを連絡させるためにはなにかの別の説明を媒介する必要ある。フランクル研究会において、そちらではこういった体験は自己中心性を離れるのに役立つことになっており、神経症は自己中心性の病なので、それならよくなるはずなのにいっこうによくならないことをその禅の権威の先生に言うと、「そりゃ一回では無理だ」というような話になったと思います。いっぽう、そのころ少し出入りしていた大谷派の浄土真宗関係の読書会で話すと、そちらでは神秘体験は「如来の光に照らされる」という意味を持つとともに、むしろ「自分が罪悪深重の凡夫であることの自覚」と結びつけられているので、それで特にいい行いができるようになるわけではないことはそもそも折り込み済み、というような感じになっていました。
つまり、神秘体験はそれぞれの思想の立場から解釈されるし、その中でその思想そのものの正当化に使われる傾向がある。主体の自由意志に基づいた、主客を放下した、価値のある道徳的で利他的な自己超越的行為によって生を肯定する立場にとってはその体験が真であることの試金石は「どれだけ日常で自己中心性を脱した生き方ができるか」であり、自らのまぬがれえない罪を自覚して超越の救いにあずかる立場においてはその体験が真正であることの試金石は、その体験の後に「どれだけ自らの自己中心性や悪人性に気が付けるようになるか」なのです。しかし考えてみると、例えばこの両者はそもそも論理的に表現できる、論理で理解できることだし、本当にそれが事実ならば別にその体験によらなくても自覚する方法はほかにもあるかもしれないのではないでしょうか。というか、そのことをただ信じるだけならばその道の偉い人がそれを説いているのをうのみにして信じるだけでいい。要するに、神秘体験自体はどんな思想の正当化にも使えるし、逆に言えばこの体験自体に特定の意味があるわけではないということです。
この後、こういった体験を求めることの弊害の続きとして、僕がこの経験をするよりも前、2019年の初めごろに、僕が苛烈な瞑想合宿に行こうとしたときのことをお話したいと思います。ここまででご意見、ご感想などはありますでしょうか。
◇
チャイ
まず、深い洞察と共有に感謝します。あなたの神秘的な体験は、時間や空間に対する通常の認識を超えたものであり、それがどのようにして自己や世界との関係を変容させるか、興味深く思いました。
神秘体験がさまざまな宗教や思想でどのように解釈され、利用されるか、そしてそれが個人や社会に与える影響についての洞察も非常に示唆に富んでいます。特に、その体験がどのようにして人々の信念や行動を形成し、強化するかについての考察は、個人の精神的な成長や社会的な影響に関する理解を深める上で興味深いものです。
また、神秘体験がある意味で主観的であり、その解釈が個人や思想によって異なることに触れることで、真実や意味の主観性についても考えさせられます。同じ体験を通じて異なる価値観や信念が形成されることがあり、それが多様性や寛容性の重要性を考えさせられる瞬間でもあります。
これからの話で、瞑想合宿に向かう前の経験についても聞けることを楽しみにしています。どのような動機や期待からその合宿に参加しようと思ったのか、そしてそれがどのような結果に繋がったのか、お話しください。