不調(虚無感と否定感)の記録・最近の記録群公開 | 生きる苦しみと希望の記録

生きる苦しみと希望の記録

日々思ったことを書いています。生きる意味について書いたものが多いかも。

かなり酷い不調が続いている。

さきほど友人が創作に関するメモをあげたのを見て、なぜか記録をつけようと思った。

頭が重く、気分が悪い。今日は昼から先ほどまで苦しみながら寝ていた。動悸がし、涙が出る。自殺をめぐる考えがぐるぐると頭を回る。

しかし、まずは最近の記録をつけることにする。どうせすぐに死ぬ身だと思えば、僕のプライバシーはたいした問題ではない。最低限伏せつつだが、書いていきたい。

 

実際には、個人的には最近の記録はつけていた。それも一部改変(個人情報などをできるだけ削除)して後半に載せようと思う。

 

今回の不調も虚無感に端を発する。

流れとしてはまず、先日自分語りによって「自分の経験を活かして人の役に立つ」道に無理を感じて断念したのだが、その後、通信制大学院に入学して臨床心理学を勉強する道を検討した。しかし、それは学費の問題からすぐに断念した。個人的には払えないことはないのだが、自分のために使うよりも同額を寄付に回した方が(実際に回せるかは措けば)効果的な利他行為になるように思われたからだ。しかしその後、「もっと自分自身がやりたいことをやってもよいのではないか」と思い返し、また自分の能力や可能性を考えた結果、なんらかの意味で知に貢献できるのではないかと思い、心理学の勉強を始めた。勢いに乗って2、3日で東大出版会の『心理学』という教科書を3分の1ほど読んだが、そのあたりで酷い虚無感に襲われた。それで、なにをしても結局自分にとって納得のいくだけのものが得られない気がして、心理学のやる気もなくなってしまった。それと同時に、「生きる意味がない」という考え自体が人に批判される感じが、さまざまな被虐的な意識や、自己否定的感覚とともに押し寄せた。

 

それが14日の夜ぐらいの話だ。実際には明日18日はある研究会で発表するのだが、それは生きる意味をテーマとして扱うようなところで、自分の発表(予定)の内容は生きる意味を説くその研究会で扱う思想家をほぼ批判するようなものになってしまった。それで、そのことで研究会の人に袋叩きになることを想像してかなり鬱状態になった。主催者に相談したところ、自分の苦悩をねぎらってくれたので、研究会の人たちもその点配慮してくれることを信じて明日発表することにする。

 

昨日は、仕事を久しぶりに早退した。おとといの夜、虚無感と被害感でぐるぐるになりながら、自殺関係のネットサーフィンをしていたところ、友人から連絡が来て、それがまたいざこざになった。昨日の朝は仕事に向かう途中めまいがし、目の前がぼやけていろいろなところに寄りかかりながら、なんとかいつもより遅れて職場にたどり着いたが、午前はやり抜いたものの、午後は苦痛に耐え抜くことができなかった。

自分を励まそうとしてその研究会で扱う生きる意味関係の本をリュックに入れていったのだが、それをバスで開いたところ書かれていることの一つひとつが自分に対する攻撃のように感じられた。その思想家の思想的立場から自分の生き方に矛先が向けられることに恐怖を感じた。しかし、研究会での発表は、引き受けてしまった以上、責任を果たそうと思い、その旨をレジュメとともに主催者に送ったのが昨夜の話だ。

 

昨日はFacebookとLINEのタイムラインに以下の動画をコメントなしでシェアした。

こういうものをシェアするような人間から人は離れていくことは経験上ある程度理解しているが、逆にそういう人ともう関わりたくないとも思い、友達全員にシェアすることにした。

 

 

 

かなり混乱していたし、思考もはっきりしなかったのだが、目的としては、自分の窮状を間接的に訴えることと、苦境にある人に配慮を持つよう訴えることのふたつが、ぼんやりとあったように思う。結局、2人ほどから軽く連絡があったが、やりとりは一言二言で終わった。

 

虚無感に端を発した不調だったが、次第に症状は被害的・被排除的意識に移って行った。

ちょうど先ほど、これを書き始める前も、死をめぐる観念・想念がぐるぐると頭を回り、それを人に理解してほしいという欲求もあったため、SNSに「そろそろ限界だと思う」などと書き込もうかと想像していた。

 

無意味感に関しては、確かに「なにをやっても(深い意味で)無意味」という感じはあるが、もはやそれは主観的・客観的どうこうという話ではなくなってきたようにも思う。

考え出せばそういう話にもなってくるのだが、結局のところ、端的に深いところで生が無意味だという実感があるということなのだ。

そして、それがさまざまな現実的な否定感・窮境の意識と結びついて、苦悩をもたらす。

 

結局どうしたらいいのかわからないが、まずは耐えるしかないというか、もし生きてゆくのだとしたら、まずは耐えるという経過をたどるしかないだろう。

 

以下、最近の記録を抜粋する。具体的情報は伏せ、その部分は●●などとした。

 

 

■臨床心理士という道(10月5日)

 

先日「今までの経験を活かして人助けするんや!」と意気込んで再開した過去の自分語りのブログは、プライバシーの配慮の必要性などから一瞬で頓挫した。

 

それで、「人の役に立つのであれば、そんな誰も悩んでないことを悩んだ経験談を語るよりも直接経済的なものを与えた方が、一般には断然助けにはなる」と考えて、先日ユニクロで資料をもらったまま放置していた、UNHCRのマンスリーサポート(月に1000円ずつ自動引き落としで寄付するもの)に申し込んだ。

するとだいぶいい気分になった。

 

この行為自体は、いいことのようでさまざまな問題がある。そもそも国から公的扶助を受けている立場で、異国の見知らぬ子どものために寄付をして自己満足とはなんたることか、と言われても仕方ない面もある。「そういうことは最低限自立してからやれ」ということだ。

また、それとも関連するが、経済的なものによって誰をどのような面で利するべきなのかという問題、自分の今までの問題に引きつけて言うならば「誰のために生きるのか」という問題、政治的に言うならば「内と外」の問題が存在する。しかし、さしあたりその問題の検討はここでの主題ではないため、このぐらいの指摘にとどめたい。

 

さて、今日はデイケアでフットサルだったが、最近ボールも購入し、外部のチームの練習に参加したりと気合が入っている面もあるからか、(昨日の夜ボールを蹴っていてときから足を少々痛めていたにもかかわらず)比較的いつもよりよいプレーができたようにも思う。

 

しかし、それが終わって手持無沙汰になると、なにかできることはないのかと悩み始めた。

 

まず、お金を稼いで寄付していい気分になる(実際には事実それで助かる人はいるのだろうし)という方向性で行こうと思い、副業について調べた。

最初にあたったのはCrowd Works、conyac、coconalaのクラウドソーシングによる副業だ。特にライティングと翻訳の仕事を中心に見てみた。

しかし、自分の現在の力量と、そのためだけに取れる時間ややる気などを考えると、どれも難しいように思われた。

やる気の観点から行っても、どれもさほど乗り気になれるものではない。例えば「男性向けの女性と遊ぶゲームのドイツ語版を作る」ための翻訳のようなゲーム開発系の仕事だとか(非常に報酬はよい)、ライティングにしても自分が恩恵をうけたことのないような商品の宣伝だとか、「哲学」で検索しても、やる気の出る名言を考えたり、恋愛・ギャンブル・仕事・投資など(それ以外にも俗なカテゴリーがいろいろ並んでいたがもう忘れた)で役立つ成功哲学の記事を書く仕事などである。

こういったものが一般にお金になりやすいトピックであり、需要のあるコンテンツなのだと思うと、自分が悩んできたようなことにいかに一般の消費者が悩んでいないかに思いを馳せることになる。

 

それで在宅副業はうんざりしてきたので他の可能性をあたることにし、次に教育系のアルバイトなどを見た。

しかし、自分の障害からいって、コミュニケーションの面で自分にかなり負担がかかるような気がすることが否めない。

ダブルワークは可能性としてはあるが、負担の大きい塾ではなく家庭教師などをするにしても、週一などで近くの誰かの家に行って教えるというのもなんとなくよいイメージが付きづらかった。

 

それで、やはり早めに転職すべきなのかもしれないと思った。

転職したらフットサルはできなくなるし、勤務時間が長ければさまざまな制約が生まれる。

しかしとりあえず、可能性としてなにがあるかを考えてみようと思い、まず職種リストをYahoo!の「しごとガイド」HPで見た。

やりがいを感じるような仕事に就けたり、なにか共感できる理念のもとで働けるならば、それはいいことのような気もするからだ。

 

しかし、リストを見ていて、やりたい仕事がなにもないことに気が付いた。

確かに、最初から選択肢から消えるもの(弁護士やパイロットや声優など)もあるのだが、それ以外の目指すことが可能そうな職種を見ていても、自分がそれをする必然性があるような仕事が存在しない。

逆に言えば、お金がもらえるならなんでもいいということでもあるし、「どんな仕事も人の役に立つから平等なんだ」とよくある論理を自分に言い聞かせて自分を丸め込む手もあるのだが、しかし正直なところなにをやってもそのことに意味を感じられはしないだろう。

 

たしかに、今の障害者雇用の単純作業にしても勤務時間は集中して全力を尽くしているし、「なんでも与えられた場でベストを尽くす」を実践してがんばっているし、それにはやっているときは悩まないなどの効用もある。

だから、どんな仕事に就いてもそのときにできる限りのことをしていくのかもしれない。

 

しかし、今の選択として、お金のためにそちらに踏み込むのは犠牲が大きいように思う。

デイケアの活動や人間関係、スポーツ関係の活動、日常の読書や道の模索に関わる活動は制約される。

また、さしあたり現在は自分がお金にそこまで困っているわけではない。たしかに老後のことを考えたり、今後彼女ができたり結婚するといった状況になることを考えるとそれへの備えは必要なのかもしれないが、それは現在はほとんどどうなるか読めない。読めない状況で「それに備えるためにキャリアアップを目指す」というのは、動機として弱い。

父は普通に「カタギの仕事に就いて」、ステータスを得て稼いでほしいようだが、父のために転職するというのも動機として弱い(間違っている気さえする)。

そうしてみると、今回「寄付するために転職しよう」という流れで考えたものの、今転職するとした場合に犠牲になる生活上の大事なものを考慮すると、それはすべきでないようにも思われる。

 

しかしそのとき、リストの中に少し引っかかる仕事を見つけた。精神保健福祉士や臨床心理士、つまり心理の仕事だ。

自分が、当事者としてだが、よく考えて関わってきた心理的な問題に職業として関わっていくのは、ある程度の必然性がある。

 

それで、そのときそばにいた臨床心理士・公認心理師のデイケアのスタッフさんをつかまえて、話を聞かせてもらった。

 

まず、「当事者がなっていいのか」「心を病んだ人が同病人をサポートするなどということが可能なのか」という点に関しては、たしかに難しい面もあるが、むしろそういう人の方が長けていることもあるし、そういう人にこそ可能なこともある。

当事者としてピアサポートの分野でなにかする場合も資格を持っていればできることは増えるだろうし、重宝される存在になれるかもしれない。

 

問題になってくるのは、制度上のものと、経済的なものと、それを目指すことに付随する自分の心理的な問題(この歳でそれをしていることに対する非難と向きあうことなど)だ。

 

まず制度についてだが、今からだとおそらく公認心理師にはすぐにはなれない。臨床心理士の資格試験の受験資格を得るためには指定校の大学院の修士課程を出ることが必要だが、それは通信でも(●●や、放送大学でも)可能だ(通信の場合外部での実習も課されるが)。

おそらく3年はかかるので、今の職場の在職期限があと2年と少しだということを鑑みると、今の職場を出てからどこかで働いて多少食いつなぎつつ修士を出る計画ということになる。しかし、もし選択として他の選択肢よりもよいと思えるのなら、可能ではある。

一方、近ごろ国家資格となった公認心理師(これはまださほど定着はしていないが、今後特に国の制度内部での仕事においては、すでに定着していて信頼性はあるが民間資格である臨床心理士よりも優遇されることになるだろう)の資格を取得するためには、大学の段階で指定の単位を取ることが必要となってくるので、これからストレートで取ろうと思っても3年時編入からの学部卒業を経て大学院を修了しなくてはならないので、現実的でない。だが、公認心理師の資格試験受験は、心理臨床の経験を5年以上積めば可能になるそうなので、臨床心理士から始めることも可能である。〔注:後に調べたところ、これは期限つきだったので、望めないようだった〕したがって、心理系資格を目指すならば、働きながら通信で大学院に行く方向性が妥当だろう。

 

一方、精神保健福祉士の資格を取ってソーシャルワーカーになるというのも、精神的なものに仕事として関わっていく方向性としてはありえる。

しかし、このいわゆるPSWは、生理心理社会モデル(bio-psycho-social model)におおよそ当てはめるならば社会にあたる(おそらくだいたいでいくと生理が医師、心理が心理師に対応するだろう)が、これは一概には言えないものの、患者の心理そのものを相手にするというより、さまざまな社会的な機関と連携を取りながら、精神的な障害を持つ人が地域で生きていくための支援を、社会資源の提供という形で行う役割を担う仕事である。

そうしてみると、自分の直接の関心の対象はどちらかというと心理の方に近いため、関心のみから考えれば心理資格の取得が道としては妥当だ。

 

ただ、それは現実的な制約を十分考えた上で選ばれるべきである。

経済的なものに関しては、十分に調べてはいないが、学費はおそらく年間50万は下らない。

ただ、●●。まずは貯金から出す方向でも十分大丈夫である。

経済的なものに関しては、現時点ではさほど大きな制約だとは思われない。

 

もうひとつの問題は自分の否定的な自意識が、この歳でまともな職に就かず勉強しているということに対する他者からの非難に耐えられるか、ということだ。

これに関しては周囲から再三、羨望やルサンチマンを伴った目で非難されてきた。もっとも、個人的・家庭的事情が許し、それが選択としてベストだと思われるならば、その選択をためらうことはないとは言える。

むしろよく考えた上でそれがよいと思うのなら、積極的に断行すべきだろう。

だから、これも問題ではないというか、むしろ問題にすべきではない。

 

もし目指すのならば、大学院受験の勉強をすべきである。

ちなみに臨床心理指定校大学院入試は、学部で4年間心理学をやった人にとってもかなり難しく、結構勉強漬けになるらしい。

だが、それは望むところというか、むしろさしあたっては燃えるところでもある。

 

ただ、以上のことは今日の19時ぐらいに思い付いたことなので、まだ思い付いてから3時間ぐらいしか経っていない。

もう少し熟成させるべきだし、どう変わるかよくわからない。

だが、選択肢として検討するのは間違っていはいないだろう。

 

 

■臨床心理学の道 その後(10月9日)

 

先日は、「自分の経験を活かして誰かの役に立とう」と考え、自分語りのブログをつけ始めたが、プライバシーの問題から挫折し、その後方向転換して、臨床心理士になるために通信制大学院に入学する方向を検討した。今から、その後の動きを書きたい。

まず、臨床心理学の道はすぐに断念した。まず、学費についてよくよく考えてみると、自分のために150万を使うよりもそれを寄付に回した方が、当初の「人の役に立つ」という観点から見ると、効果的な利他行為である可能性が高いと思われたからだ。

それには、自分の年齢と障害が絡んでいる。確かに、当事者として臨床心理学を修めることにはそれなりの意義があるのかもしれない。しかし、コミュニケーションや人間性的なものを鑑みると、責任ある対人援助職に就くにはおぼつかない面がある。より若く可能性のある人が代わりになってくれるならば、そのために投資した方が全体の幸福のためには効果的である可能性も高いように思われた。心理学でないにしても、可能性と意欲のある人材に教育を受ける機会の道を譲った方が結果としては社会貢献になるだろう。

そう考えながら机に向かっていると、ちょうど先日月々1000円のマンスリーサポートに入会した国連難民高等弁務官事務所からのお礼の電話がかかってきた。自発的な利他行為は仕事としての支援よりも感謝されるのかもしれないが、それほどのことはしていないのにわざわざ感謝されて嬉しい感じがした。そして、1000円でもこれなのだから、150万あったらどれだけの支援ができるだろう、と思った。

それで、次に寄付サイトをサーフィンした結果、教育系の慈善団体を見つけ、マンスリーサポート(こちらもまずは月々1000円)をすることにした。こちらは結局、ソフトバンクカードによる登録の問題でうまく決済ができず、現在先方とやり取り中である。〔注:結局ここに関しては最終的には単発の寄付で終わることにした〕だが、その流れでもう学問は諦める方向性だった。

そんな中、よくよく反省してみると、寄付の動機が「社会への言い訳」のような気がしてきた。もちろんこの立場での寄付行為自体に問題もあるのだが、なんにせよ寄付をすれば相手から感謝されることによっていいことをした気分、認められた気分になる。普段から他者や社会に否定されている感覚を強く抱いている中で、それは希少な喜びである。しかし、結果助かる人がいるとはいえ、寄付のそもそもの動機がそれというのは、個人の生き方としてはどうなのかと考えるとなかなか難しいとも思われた。

社会には格差があり、内と外がある。極端な話、人間と構造的に対立関係にあるような生命を守ることはできない。利他ということは非常に難しいもので、倫理思想としてもさまざまな問題がある。そのことと照らすと、自分がどういう選択をすべきかにも、新しい光があたる。もっと自由に生きてよいのではないか。そのような「共生の倫理」の理想を、言ってみれば「強制の倫理」のように受け取って、自分がそれにそった行動ができないことを意識して自責的になるよりも、むしろそれを部分的に放棄してしまってもよいのではないか。他者や社会からの批判に応えることにあくせくするよりも、もっと自分のほんとうにやりたいことに力を尽くすような生き方をしてもよいのではないだろうか。確かに、それは同時に社会の中で能力を発揮して評価されることにもつながるし、それも目的の一部かもしれない。だが、少なくとも「非難してくる人に対して自分を認めさせる努力をする」よりも、もっと自分を評価してくれる人、自分のしたことをよく受け取ってくれる人の声に耳を傾ける生き方をした方がよいのではないだろうか。自分の自己否定感は根深く、容易には振り払えないが、少なくとも行動としてそれに従い続けるのはおかしいのではないだろうか。

今日は帰ってから人と少しトラブルがあり、ショックで2時間ほど寝ていた。しかし、起きると、友人からメッセージが届いていた。この友人は、先日の僕の自分語りの文章からなにかを感じ取って、自発的に僕をモデルにした短編小説を書いてくれた人だ。それは個人的に読ませてもらったが、うまくデフォルメされていて、しかも自分の向き合ってきた問題が非常にうまく描写されていた。虚無感を抱えた人に対する周囲の反応なども、非常に妥当な形でうまく描かれており、また生の意味を吹き返した世界についてのその人なりのイメージも具体的に語られている。問題がうまく理解され過ぎていて、最初は、僕が虚無感を彼女に感染させてしまったかもしれないと疑ったほどだった。

さて、その友人は、最近表現活動に凝っているようで、作曲の仕方を教えてほしいと尋ねてきた。それで、僕はそれに答えながら、自分の過去に作った曲を10曲弱提示した。それをあらためて聞いてみると、我ながらぼちぼち創造的な曲を作ったものだと思った。もちろん素人のたしなみで、YouTubeで再生回数を稼げるようなクオリティでもなければ、無関係の人が聴いて音楽として楽しめるほどの完成度でもない。しかし、おそらくこれは平均的な一般人には作れないだろう。そうしてメールを送って、寝ようと思って布団に入り、今までのことをぐるぐると考えていると、いろいろやってきたなあと思い返された。

いろいろやってきた。人よりも多少なり能力があった。勉強、スポーツ、音楽で多少なりそれらしいことをした。たぶん人より学習能力はあったようにも思う。まだなにかできるのではないか。そう考えて、まだなにかできるのではないか、と自分の可能性に想いを馳せると、だんだん、今のような単調な仕事、黙々とシールを貼ったり封入をしたり規則に従ったデータ入力をするのに時間を費やしているのが、惜しくなってきた。

しかし、だからといってなにができるのか。就きたい職種もなければやりたい仕事もない。しかし、社会に対して行動によって自分が人並みに認められて存在していていいことを承認させるためには、自分にできる社会貢献をしなくてはならない。そして、経済的糧を得て、社会的評価を獲得しなくてはならない。すなわち、仕事をしなくてはならない。

教育の道に戻る可能性に思いをはせた。しかし、分野・コミュニケーション能力・自己否定感や対人不安といった障害を考えると、難しいと思われた。確かに、なにかをするにしてもこれは明らかな障害になっている。それならそれなりの、障害者としての生活に徹した方がよいのだろうか?

しかし、やはり自分を活かせる道はあるのではないだろうか。自分の人より少しは高いと思われる学習能力を活かして、独自の活動によってなにかに貢献する道はないのだろうか。そう考えたとき、結局思い至ったのはやはり学問、というより広い意味での知に貢献する道だった。

僕がずっと問うてきた生の意味を心理学として扱っている中心的な大学は、おそらく●●(以下略)。

どうするかはわからないが、可能性としては検討のしがいがある。さしあたり、さっき思ったことを記録した。

 

 

■卓球の試合に伴う不調と回復の記録(10月11日)

 

今日も気分の波も含めていろいろあったので、一応誰かに聞いてもらう資料用ぐらいの感じで記録したい。

 

今日は卓球の試合だった。

普段から練習不足なのは承知しているし、最近特に行ける練習もいかなかったりしてサボりが加速していることも自覚しているのだが、「なんとかなる」という漠然とした思いと、「なんにせよ今の状態でベストを尽くそう」というメンタリティをもって臨むことにした。

予選リーグは4人リーグで、3ゲームマッチだったので、調子が出る前に決着が着いてしまうかもとは思っていた。

メンバーは、よく知っていて時々練習するおじさんと、知らない2人だった。僕は上から2番目に書いてあったので、一番上の人が気になったが、最初の試合を見ていると、勝てないこともない気がした。予選リーグはうまくいけば1位抜けできるだろうと思った。

1試合目は時々練習するおじさんで、僕は今まで彼と試合をして負けた記憶がなかった。しかし、1ゲーム目、できるだけ丁寧に打って調子を上げていこうと思っていたら、動きがかたくなってうまく入らず、10-12で負けてしまった。

まだいけると思ったのだが、2ゲーム目、序盤から4、5点差をつけられてしまった。なんとか思い切って攻めていこうとしたが、相手のネットやエッジボールが続いたりもして、最後まで差がうまく縮められない。できる限りメンタルが折れないように攻め気を維持したのだが、最後決めて9-10まで追いついたところで飛び付きドライブがオーバーして負けてしまった。

正直、いわゆる格下で、負けるはずのない相手だった。直前に主催側の人に声をかけられ、「~さんは、まあ勝てるな」と言われた際、「まあ、そうですね。なめてられませんけど」などと言っていたが、確かにできるだけ油断しないようにとは思っていたのだが、多少なめていたと言える。

そういえば、先日デイケアで「だいちちゃん●●の障害者で一番みたいやで」と言われたとき、「まあ障害者ではね」などと言っていたが、今日●●くんが参加しているのを見て、最近まで●●に行っていたりして、帰ってきてからも試合では見なかったから完全に忘れていた、と思った。明らかに●●の障害者では実力的には彼が一番だ。

僕はしかし順当にいけばいつものおじさんには負けないはずだ。だがなめて油断していたらそういうことは起こるものである。ただ、それだけの番狂わせ的な話ならまあありがちな話ではある。しかし、僕はこの結果はしっかり受け止めるべきだと思った。この悔しさを活かすべきだと思った。

それで、終わってから少し空き時間がありそうだったし、思ったことは文字にして形にして、はっきりさせておくべきだと思ったので、体育室の外に出てベンチで反省文を書き始めた。内容は次のようなものだった。

 

まず、今回は調子が出る前に格下に負けたという結果で、確かに調整の問題はあるのだが、練習不足、ひいては実力不足だと取るべきだろうとも思われた。実際、実力が十分にあればあの状況でも対応があったはずである。

だから、今回の結果は自分の努力不足だと受け取るのがスポーツマンとしても正しいように思われた。

しかし、その反省を活かすならこれから今まで以上に練習するべきである。だが、今の状況で僕は卓球の練習にどれだけ自分のキャパを割けるだろうか?

できるだけ?できるだけというのはどのぐらいだろう?他の生活上大事にしている活動の時間も削るべきだろうか?それともできる時間の集中力を増すべきだろうか?そのために日ごろから心構えをするべきだろうか?今後、どうしたらいいのか?

そもそも、卓球で強くあることにどれほどの意味があるだろうか?それは一般にでもあるが、特に自分にとってだ。むしろそれしかないのかもしれない。そうしてみると、自分は卓球で強くありたいのか?そちらの方がいいとは思っている。しかし、そのぐらいだ。コミットメントはさほど高くない。では?中途半端にやるぐらいならやめてしまって他のことに集中するか?しかし、やめたところで他のことに集中できるのか?本来どちらもできる限りやるべきではないのか?白黒、全か無、100‐0の思考をせず、また他の安易な解決に飛びつくこともせず、今のフィールドで粘るべきではないのか?

しかし、結局なにが大事なのだろうか?力を尽くすことか?それとも怠けるというか、楽に生きる方が大事なのだろうか?そんなに歯を食いしばってがんばらなくてもいいのだろうか?

 

そんなことを書いていたが、そろそろ会場に戻らないといけないと思った。さしあたり、まずは次の試合で全力を尽くそうと思った。今の状況でできる限りのことをしようと思った。しかし、気分は深刻な感じになってきて、少なくとももう楽しくはなかった。

主催側の人が対戦相手を紹介してくれた。どうも前回の優勝者らしい。今回は先日の●●にも出たマスターズ全国3位の人が出ているので、第2シードということで自分のいるBリーグのトップになっているとのことだ。

しかし、なんにせよがんばろう。これで2-0で勝てたら三つ巴になってもしかしたら予選を2位抜けすることも狙えるかもしれない。そう思って試合に臨んだ。結果はゲームカウント1-2で、最後は9-10の場面で自分がチャンスボールをミスして9-11となった。

試合の途中からかなり深刻な気分だったが、それで負けてからその気分がますます高まった。気分が悪くなり、鬱っぽくなってきて、試合が続けられる気がしなくなってきた。それで少し迷ったが、ついに棄権して帰ることにした。昼頃のことだ。

帰りのバスで、非常に絶望的な気分になってきた。もうなにもかもだめな気がして死にたい気持ちになった。こんなことでそんな気分になってしまうこと自体にも嫌気がして、こうなるようでは心理学の道も歩んで行けないだろうと思った。それどころか、もうなにごとも中途半端にしかならないままのような気がして、そうやって生きていくことが絶望的に思えた。

帰ってから夕方まで4時間ほど寝たのだが、酷い気分の落ち込みと、めまいと耳鳴りが続き、頭が重く、とても辛かった。起きてから吉野家で夕ご飯を食べたり、アマゾンでほしい本を頼むために銀行でお金をおろしたりして、それは少し気分転換になったのだが、帰ってからまたかなり悩みこんでいた。

遂に持ち直したのは、先日作曲関係の話をした友人から届いたメッセージを読んだときだ。僕のブログの以前の読者で、僕をモデルにした小説を書いてくれた人なのだが、その後作曲の仕方が知りたいと言うので話ついでに僕が以前作った曲を10曲弱送った。そうしたら、べた褒めメッセージが届いたのだ。

これはお世辞でも嬉しかったので、テンションが上がって返信したが、そうこうしていたらなんとなく気分が回復してきて、直前まで「こんな人生になんの意味があるのか。いや、そもそも人生になんの意味があるのか」などと考えていたのが、「やっぱり自分は生きることそのものと向き合うことに対する愛がある」と、なんとなく自尊心を伴ったことを考え出した。調子のいいものである。

 

調子がよすぎる話なので以上。まあ、確かにこんなに波があってはまた大学院でやっていくのはおぼつかないかもしれない。また入学してすぐダメになる、ではいろいろ問題が大きい。じっくり検討すべきだが、やるならがっつり集中して勢いよく勉強するべきだし、そのためには早めにはっきり決断するべきでもある。

今後卓球をどういうスタンスでやっていくかも含め、いろいろ悩みどころだ。

 

 

■今後(心理学の道)(10月12日)

 

心理学の本を読みながら、その可能性に思いを馳せていた。

近ごろは生の意味の問いの客観的な答えへの執着が薄らいできて、その追究の苛烈さも弱まってきた。

確かに今でも、ネット上にあふれかえっている「生きる意味など存在しない。意味は自分で創り出すものだ」という「模範解答」と、それを賛美するコメントの山を見ると、自分の居場所が奪われていくように感じる。

しかし、それはもはや人間関係の問題、社会的な問題であって、生きる意味の問題そのものではない。

それに、もし仮に日本人は基本的に「生きる意味は主観的なものだ」という答えで満足できるのだとしても、僕はそうではない考えを持つ人びとも知っている。

最近はSusan Wolfというアメリカの思想家に注目しているが、彼女は、ある主体が生きる意味を見い出すとき、それは本来客観的な意味と関わっているのだと考えた。その上で、利己的な関心のみからでなく、道徳的な要請のみからでもなく、自己を超えたなんらかを愛することの内に意味を見た。

そういった、単純に「人生は結局のところ無意味だ」という前提に立たない人の存在は、僕にとっては慰めになる面もある。

ただ、このような姿勢は、まだ「生の意味の問いの一意な答え」(「それは主観的なものなのだ」とか「客観的に存在するのだ」といったもの)に縛られている状態だとも言えるかもしれない。

 

心理学は、もう少し別の角度からこの問いに光を当てることができるように思う。

それは、ある人がある形で生の意味を問うことの心理的な条件を明らかにできる可能性を持っているように思う。

確かに、ほんとうに「客観的な生の意味は存在しない」というのでよいのか、という問題はそれはそれであるのかもしれない。

客観的な意味への問いはどういう意味で大事なのかや、また、そもそも一般に、生に意味を感じることは大事なのかといったことはそれはそれで問題化しうる。

 

しかし、心理学はさらに、そもそもそれをなぜ問題だと感じるのかというところに光を当てることができる。

つまり、「客観的な意味を問い、求めるという経験の意味」を明らかにする道になりうるように思う。

それは、そのような経験と、発達段階とか、主観的幸福感だとか、その他の指標との関係を明らかにすることも含む。

しかし、まずはその問いを人が問うあり方、特にそれを問う人がそれを問う、その条件を明らかにすることだ。

 

なぜ人は、そのようなことを問題とするのか。なぜ僕にとってそれが問題となったのか。

僕の抱えていた問題の条件はなにか。というよりむしろ、僕が問題を抱えていたということそれ自体は、なにに条件づけられてそうなっていたのか。

なぜ僕はこの問いにとらわれ、苛烈に問い詰め続けなくてはならなかったのか。そしてあそこまで悩み苦しまなくてはならなかったのか。

 

生の意味の問いを生み出す心理的条件を、心理学の手法を用いて、実証的に明らかにすること。

生の意味の問いを抱える条件、その状況を構成する条件に関して、一片でもいい、なんらかの事実を示すこと。

それによって、自分が抱えていた問題に、悩み苦しんだ過去に、決着をつけること。

 

実際、問題は重要なのかもしれない。しかし、そう思うことそれ自体からいったん距離を取り、自分がそう思わずにはいられない条件を自覚することにはそれ自体なんらかの意味がある。

それによってもしかしたら問題は問題でなくなるかもしれないし、もしかしたら逆により問題性を増すかもしれない。

しかし、そのなにかを明らかにしていく過程に、当座の自分の生の意味を見出すことはできる。

 

それは非常にしっくりくる上、社会的な意義とも結びつきうる。

それはまず、心理学という学問における知見を増すこと、すなわち学知への貢献と結びつく。

また、より一般化された形で生の意味の問いの条件を明らかにし、それをまとめ、発表することを通して、悩む人にとってなにかの助けになる可能性のある知を届けることができる。

もし心理臨床の道に進むとしたならば、その知見を臨床に活かすことによって人を心理的に援助することができる。

 

自己の問いから距離を取ることで、それを社会的意義のある仕事に昇華させることができる。

 

もう、生きる意味を問うことを生きる意味とするのはやめよう。

そうではなくて、生きる意味を問うとはどういうことなのかを問うことを生きる意味としよう。

 

過去の自分に対する納得のいかない思いを昇華してエネルギーにし、生の意味と人間心理の関係をテーマに研究をしよう。

 

その営みを社会的意義に結び付け、またそれを通して、自分自身の問いに決着をつけよう。

それを実現するために、それに向かって最大限の努力をすることを、これからしばらくの、僕の歩む道としよう。

 

 

■苦悩(10月17日 朝)

 

これまで20年ほど日々虚無感と向かい合い続けてきた。

近ごろ軽快していたが、またぶり返した。

原因がわからない。まわりに同じことに悩んでいる人がいない。

そういう人に訴えたところで、心ない言葉を吐き捨てられるだけだ。

「暇だから悩める贅沢な悩みだ」

「親に援助してもらいながら言われても贅沢者のたわごとにしか聞こえない」

「生き方が自己中心的だからそんなことに悩むのだ」

「生きていてうまくいかないことがあるのは当たり前なのに、それを生きる意味のせいにするな」

「ありもしないものを求めて勝手に悩んでいるだけ」

「そもそもの意味なんてわかるわけないし、自分で意味づけても変わっていくんだから、今やりたいことをやればいい」

「ただの中二病の弱者なのに、自分がすごいこと考えてると思い込んでいる不誠実な人間」

「オウムと同じ危険思想の持ち主」(最後のふたつは大学院で宗教哲学を学んでいたとき)

実際にこういった言葉を投げつけられてきた。

いくら外向きの行動をしても同じところに打ち返されるだけ。

原因を探ろうと自己分析し始めると「内側にこもっている」という批判の餌食だ。

 

※途中書きのところで研究会の主催者からメールが来て中断

 

 

■まとめ

 

以上、最近の記録。

14日に虚無感により調子を崩してからの様子に関しては、人に直接宛てたメールとしては存在するがまとめるのは控え、冒頭の記録をもって代えることとする。