別のやり方――自己表現の技法 | 生きる苦しみと希望の記録

生きる苦しみと希望の記録

日々思ったことを書いています。生きる意味について書いたものが多いかも。

さきほど、プライバシーの問題から自分語りができないと書きました。

しかし、目的が「自分の思考・感情体験を他者に追体験してもらうこと」である場合、そのための方法は別に存在します。

自己表現のための技法というものはすでに文化の中に発達しており、誰でも取り組むことは可能です。

そして、経験の追体験という観点から見た場合、むしろそのような定着した表現技法にのっとる方が、単純な自分語りよりもはるかに有効である可能性は高い。

 

しかしまず、文章表現に限定する場合、僕はいわゆる文芸、つまり小説や詩といったものに触れてきた経験がほとんどないし、ましてや書いたことなどは一度もありません。

自分の経験を蒸留し、再び具体化することによって、人が興味深く読めるような作品にまで仕上げるためには、これからかなりの試行錯誤が必要にも思う。

 

音楽に関しては、作曲の経験はあり、10曲ぐらい完成させたこともありますが、こちらも非常につたなく、人が聴けるような形に十分に仕上げるのも難しいようにも思う。

 

仕事の余暇をぬって、そういった新しいことをやってみるのはいいかもしれません。

しかし、僕自身の生きる上での中心テーマは、今までも、「自己表現」ではなくて「自己の生の意味の追究」であったし、おそらくこれからもそうだと思う。

 

そのテーマの追究における活路が、近ごろやっと他者とのコミュニケーションの中に見い出されそうになってきただけであって、コミュニケーションや表現ということを中心にやってきた人間ではないので、やはり十分なものにはならないように思う。

 

だとしたらどうするか。

やはり生きている以上、なんのためになにをするのかを、模索し続けなくてはいけないように思います。