カントにおける定言命法の導出根拠についての批判的検討 他日記 | 生きる苦しみと希望の記録

生きる苦しみと希望の記録

日々思ったことを書いています。生きる意味について書いたものが多いかも。

■市役所での手続き

今日は午前はデイケアで読書していて、午後は寝ていたが、先ほど更新された障害者手帳の受け取りと、自立支援医療受給者証の更新手続に行ってきた。
前回、障害年金の等級に合わせて手帳の等級が変更になると言われていたので、手帳自体の更新のために証明写真を撮って行った。
しかし、市役所に着くと、等級は変更にならないと言われた。いわく、「年金の等級と必ずしも一致するとは限りません」とのことである。
別に変更にならなくてもいいのではあるが、前回そう言われたから写真を取っていったのではある。
また、父のマイナンバーが必要だと言われていたので聞いてから行ったのだが、「必要ありません」とのことだった。
僕が、「必要だと言われたのですが」と聞き返すと、「確認してきます」と行って奥の方の人に聞きに行き、帰ってきて「やはり必要ありません」と言った。
しばらくやり取りをしていて、その人にはよくわからないところがあるからか、人が交代になった。
そして、交代した後に、次の交代後の人に最初に要求されたのが、父のマイナンバーである。
「さっき要らないと言われたのですが」と聞くと、「いえ、必要です。なければ手続きは進められません」と言う。
そりゃまああるといえばあるので、マイナンバーを提示し、それから「手帳の等級が変更にならないというのはどういう理由があるのですか」と聞くと、確か、市役所から年金事務所に問い合わせたところ、変更なしとの指示がでたとのことで、前回の手続きのときはまだわかっていなかったそうである。
なので証明写真は要らないと言われた。一応、必要だと言われたから撮って行ったのだが、僕には補償を要求する勇気もなかったし、まあどうせ無理だろう。
実際、国から補助を受けている立場なのだから、一食分ぐらいの証明写真代ごときで文句を言うのは出過ぎたマネなのかもしれない。
その後、父の生年月日や住民票の住所を要求され、「すぐにはわかりません」と言うと、「必ず必要なので、それだと手続は進められません」と言われた。
仕方ないから仕事中の父に電話して聞くことになった。
そんなこんなでストレスを感じたが、おそらくこれとは比べものにならないぐらいの理不尽な思いを強要されるであろう労働を免除されている立場である以上、これしきのことに文句を言うことは許されることではないだろう。

■授業料減免申請断念

10月から復学する場合に、授業料免除をダメもとで申請しようと思っていたが、断念することにした。
理由としては、基準に「学業優秀」というものがあり、落ちこぼれである以上不可能だと思われるのと、単純に世帯収入が割とあるので経済的にも基準を満たさないと思われたからである。
資料を見ると、最短修業年限超過者については、「真にやむを得ない事情がある」わけではない場合、免除の対象にはならないとのことだった。
その事由の中には「長期療養」とか「申請者本人が障害者であるため学業・研究において修業年限以上の期間を要すると認められる」なども存在するが、しかし、僕は最初の休学の際に、休学の理由を、病気ではなく「修学意欲喪失」としている。
というか、このような落ちこぼれ具合から行くと、おそらく自分の授業料を免除しても、学校側の得になることはないということを考えても、むしろ自分からそうしたことは控えるべきなのかもしれないとも言えるだろう。
実際、在籍しているのも社会的な身分を得るため擬装工作のような面があるわけだし、研究における競争原理も苛烈になっている中で、そのようなクズの授業料を学校側が負担するというのもおかしな話である。
以上のことから、授業料免除申請は断念することにしたい。

ここまで書いたらひどく気分が悪くなり、2時間半ほどダウンすることになった。
体も心も非常に重く、歩くのもつらくてふらふらする状態だが、書きたいことがあるので(誰も読まないにせよ)とりあえずまとまるまで書ききりたいと思う。

■カントにおける定言命法の導出についての検討 他

先日、生きる意味というのはただの言葉に過ぎず、本来はそんなものは存在しないのであり、したがって生きる意味という言葉でわれわれが表現しようとしているものを実現するには、生の充実感を実体験するしかないのだ、という説について考えた。

今考えてみると、「生きる意味という言葉でわれわれが表現しようとしているもの」と言った時点で、生きる意味という言葉に現実のなんらかの事象・対象との対応関係がつけられ、したがって生きる意味に(恣意的に)その実質が与えられ、したがって生きる意味がただの言葉ではなくなっている。

ただそれは措いても、というよりさらにその考えを徹底して、「生きる意味についてうんぬんすることはすべて空虚な言葉遊びにすぎない」と考えるとし、意味という言葉も含めてすべての概念は感覚から生み出されたものであり、特に倫理的観念はすべて作り物であると考えるとする。

先日の日記の内容は、それに反対したのがカントだったのだ、というものだった。
6/27の日記「生きる意味はただの言葉なのかどうかについて カントとともに」より引用する。



実際よく考えてみると、言葉というものはそこまで信頼のおけない作り物だろうか。
「頭の中で作り出した」数学のような学問が、物理学を介して現実にかなりの程度妥当しうることは、近代科学・科学技術の成果をみればある程度明らかである。
ただ、そのような記号、広い意味での言葉が事実を描写するのは、物理的な世界だけのことであり、価値の世界にはそのことは妥当しないのだ、価値とか意味とか理想とか理念とか当為といったものは、結局のところ作り物なのだ、という見解はある。
しかし、そのことに反旗を翻したのがカントなのであり、価値の世界の存在が、彼が主には第二批判、『実践理性批判』や、『道徳形而上学の基礎づけ』などにおいて示したことだったのではなかったか。

「生きる意味は経験そのものだとしか言えない」というのは、経験をすべての事実の源泉とする前提を含んでいるようにも思われる。
しかし、カントは、すべての経験に先立つ認識や直観を考えたはずである。
そして最終的にはそのような経験に先立つ認識の枠組みそれ自体の導く命題の綜合のみによって、価値の世界を開いたのではなかったか。



実際はこのあたりで、意味というものと価値というものが混同されてきている感じがあるのだが、意味を倫理的観念として捉え、「なにをなすべきか」といった考えに引きつけることが許されるならば、カントの価値論を参照することはそれなりに理にかなったことでありうる。
カントの理論にのっとれば、言葉が客観的意味を持つのはいかなるときなのかという問いが、価値の次元を考えることを通して問われえる。

それで、あれから、カントの本にあたってみることにした。
具体的には、『道徳形而上学の基礎づけ』、いわゆるグルントレーグングの、道徳の原理が導出され終わるあたりまでを読んだ。

実際例えばカントは、自殺をしてはいけない理由を、それはこの道徳の原理から導かれる義務だからなのだとする。24節から引用しよう。

「自分の生命を維持することは義務であり、その上誰でもそうしたことに直接的な傾向性をもっている。けれでもそれだからと言って、大多数の人間が生命維持のために払う度重ねての小心な配慮はなんら内的な価値をもたないし、またそのように配慮するという格率は、なんら道徳的内容をもっていない。かれらはかれらの生命をなるほど義務に適合して維持するが、しかし義務に基づいて維持しているのではない。だがこれに対して、厄介な出来事や絶望的な苦悩が人生への愛着をまったく奪い去ってしまったときに、この不幸な人間が心を強くもち、無気力になったり打ちのめされたりするどころか、むしろ自分の運命に憤りを感じ、死を願いながらもなお生命を維持し、その際生命を愛するのではなく、傾向性や恐れに基づいてではなく義務に基づいて生命を維持するのであれば、この人間の格率は道徳的内容をもっているのである」(『道徳形而上学の基礎づけ』I・カント、宇都宮芳明訳・注解、以文社、pp.37-38)。

ここではまだ、なぜ生命を維持するのが義務なのかについては述べられない。
しかし、まず、傾向性、つまりは感覚、すべてのアポステリオリで経験的なものを、意志の規定根拠(格率:主観的行為の規則)とすることを退け、アプリオリに純粋理性の諸概念の内にその根拠が求められる義務に基づいて行為すべきこと、そしてその内には「自殺してはならない」という命令が含まれるのだということが述べられる。
それと同時に、たまたま生きたいと思えるような境遇にいるから生きるということは、それとしてはこの義務を果たすことにはならないということが述べられる。つまり、それはたまたま傾向性が法則と一致しているだけなのであり、法則への尊敬からなされる行為ではないからである。それは単なる適法性Legalitätなのであって、道徳性Moralitätとは本来異なるのである。
たまたま生きたいと思える境遇にいて道徳的であることも可能である。しかし、そのためには、傾向性、つまり欲求に従って生きるのではなく、端的に道徳法則への尊敬から生きるのでなくてはならない。
同時に、生きたいと思えない状態にあるときも、道徳的であるということは、その傾向性にもかかわらず、法則への尊敬から生きることを意味する。

(道徳法則への尊敬は、理性概念が自ら引き起こした感情であるので、傾向性とは種的に区別されると述べられる(同上、pp.48-49に詳細)。)


この論理は徹底的に考え抜かれた末の結論かもしれないが、おそらくこれを死にたいと言っている人に教えてもなんの効果もないだろうとは言える。(自殺関係のある本に同様の感想が書いてあった気がする。)
だが、これも含め、もしカントの言うように、すべての傾向性とは独立に「なすべきこと」、つまり義務が存在するのだとしたら、それは客観的に価値が存在することを少なくとも意味し、つまりこの世界は、この世界の言葉や倫理観念は、感情や感覚だけで成り立っているのではなく、価値となんらかのかかわりを持っていることになる。
つまり、「倫理学はある人が既にそうであってほしいと思っている倫理を精巧に理論化することにすぎない」という結論からは免れられることになるのである。

おそらくそんな倫理原則・道徳法則が存在しなくても人間は仲良くやっていくことも可能なのかもしれない。例えば、上記の自殺否定論に加えて、カントは以下のようにも述べる。

「できるだけ他人に親切にすることは義務であるが、その上〔世間には〕同情心に富んだ人が多く、かれらは虚栄や自利といったほかの動因がなくても、自分の周囲のひとびとに喜びを広めることに内的な満足を見いだし、自分のせいで他人が満足するのをたのしむのである。だが私は主張したいが、このような場合にそうした行為は、たとえ義務にどれほど適合していようと、その上どれほど人に好まれようと、真に道徳的な価値をそなえてはいず、その他の傾向性と、たとえば名誉への傾向性と同等の資格をもつにすぎない。名誉への傾向性は、それが実際に公益に合い義務に適合し、したがって名誉に値する事柄に運よく合致する場合でも、賞賛と賞揚には値するが尊重には値しないのである」(同上、p.39)。

つまり、道徳法則によらなくても人はその傾向性によって愛し合い共生することができるが、それはそれとしてはなんら道徳的ではなく、適法的なだけなのである。
同じように愛し合うにしても、道徳的であるためには、すべての傾向性や目的論からまったく独立な、形式的な道徳法則への尊敬から、それを動機として、行為するのでなくてはならない。

ここからいくと、カントの道徳論や価値をそのまま「生きる意味」の理論と等置する場合、上述の感覚から生きる意味を導く議論とは逆の結論になることがわかる。
生のよりどころ、義務の源泉は、カントにとっては充実感や生きがい感ではなく、むしろそれと明確に対立するものである。
確かに、そのような感情と義務の遂行が同時に成就することはある。しかし、生きがい感や愛の実感や生きがい感、言ってみれば「生きる意味の感情」それ自体はカント的な価値とはまったく関係ない。
そうではなくて、それがほんとうに価値であるのかどうかを判断する唯一の基準は、道徳法則を主観的な格率と一致させて、それを動機とすることによって行為したかどうかなのである。
確かにそう考えると、これは生きる意味の問いの別様のあり方ではある。


しかしながら、このような道徳法則というものはそもそも存在するのだろうか??

僕が『道徳形而上学の基礎づけ』を読むにあたって一番知りたかったのはそれであった。
しかし結論を言えば、「こうしてわれわれは、通常の人間理性がもつ道徳的認識のうちにとどまりながら、その原理にまで到達した」(同上、p.56)と言われる部分まで精読した結果、カントは道徳法則の導出、その論理的証明に成功したとは言えない、と、仮に僕の読みが間違っていないならば言えるであろうということを、結論する。

最終的なカントの言う道徳法則、つまり定言命法第一式は、これは日本語訳なので書いてはいないのだが、以前暗唱したので記憶している。それは次のようなものである。

Handle so, dass die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.
――君の意志の格率・主観的行為の規則が、常に同時に、普遍的な立法・法則定立の原理として妥当するように、あたかもそうなりえるかのように行為せよ。

しかし、少なくとも『道徳形而上学の基礎づけ』におけるカントの議論の範囲では、この道徳法則が実際に理性の事実として存在することを証明したとは言えないと考えられる。
カントは、この本の序言で彼の立場からの哲学の分類を述べた後に、第一章の「通常の道徳的理性認識から哲学的な道徳的理性認識への移行」に入る。
しかし、序言においてすでに彼の哲学の枠組みが規定され、それはすでにある不確かな前提を、前提している。
それは、人間には純粋でアプリオリな理性認識が可能であり、それは自然学における経験的部門に対する自然形而上学で遂行されえるばかりか、倫理学における経験的部門(実践的人間学)以外の場、すなわち道徳形而上学においても可能である、という、すでに結論を先取りした前提である。

そしてこの立場から、彼は第一章において、まず善という性質を意志にのみ帰属させるという操作を行い、経験的に善いとされる目的から善を考える結果倫理学的な前提を排除する。
しかし、すでにここには、経験に基づかない善さがあり得るという前提がある。

その後カントは、自然がわれわれの理性がわれわれの意志を規定できるように人間を作った理由を、理性が(本能によるほうがうまく追求できる)幸福ではなく、それとは別の価値を実現するように定められているからだと述べる。そして理性の使命は、他のなにかの手段として善い意志ではなく、それ自体において善い意志を生むことだとされるのである。

その後に続くのが義務の観念の検討であり、そこで上記の道徳性・モラリテートと適法性・レガリテートの違いが例を交えて述べられる。
そこでは、傾向性に基づいてではなく、義務に基づいて行為すべきだという原則が示される。

さらに続いてカントは、道徳的価値が、ただ格率のうちにのみ存する、つまりは行為の対象の実現ではなく意欲の原理のみに依存すると述べる。
ここから、意志は結局、形式的であるアプリオリな原理と実質的であるアポステリオリな動機の間にあるのであって、そこで意志の規定根拠として前者を選ぶことが義務に基づいた行為なのだという結論が導かれる。

つまりカントはまず、直接的な傾向性ではなく義務に基づいた行為のみが道徳的価値を持つとし、その後に、義務に基づいた行為はその行為の道徳的価値を、行為を通じて達成される意図の内にではなく、行為がそれに従って決心される格率のうちに持つのだと主張する。

ここまででは、カントは「格率を義務と一致させるべし」としか言っていず、その義務、つまり道徳法則の具体的内容については、というか形式的内容に関してさえ、なにも述べていない。

しかし、カントはこの後この点に関して大きな飛躍を行っているように見える。

彼は、「義務とは法則に対する尊敬に基づいた行為の必然性である」(p.46)とまず規定し、その義務に傾向性に関わりなく従うことの道徳性を主張する。
そこまでは上記の範囲を逸脱していない。しかし、その後彼は言う。

「ある意志が端的に、そして無制限に善いと言えるためには、法則の表象が、それから期待される結果を顧慮しないで意志を規定しなければならないがではこの法則とはいったいどのような種類の法則であろうか。私は、なんらかの法則に従うことから意志に生ずるかもしれないすべての動機を意志から奪ったから、そこで残るのは行為一般の普遍的合法則性だけで、この合法則性のみが意志に対して原理として役立つはずである。つまり私は、私の格率が普遍的法則となるべきことを私はまた意欲することができる、という仕方でのみふるまうべきである、ということになる」(同上、p.50)。

ここには大きな飛躍がないだろうか。

行為一般がアプリオリな形式的論理によって導かれる法則に従うべきだというところまでは、彼の理論の枠組みから言えばそうなのかもしれないが、問題はその法則の内容だった。
しかし、ここで彼は、格率が「普遍的法則となる」と言うことを介して、格率が合法則的で理性的に妥当するべきであるというところから、その格率が客観的に誰にでも、しかもいつでもどのような状況でも同様に普遍的に妥当するべきだ、というところに飛躍しているのである。

そして、この飛躍を前提にしてかの悪名高い「嘘の禁止」の議論を始める。
その論理は、嘘をつく、つまり約束を破るつもりで約束する、という格率が普遍的な法則として妥当すべきことを意志した場合、そのような法則に従えば、本来いかなる約束も存在しないことになるから論理的に矛盾が生まれるのだからそれは間違っているというものである。

「なぜ嘘の約束をすべきでないかを知るためには、その際私が、私の格率(嘘の約束をするという)が普遍的法則(誰でもが嘘の約束をするという)となることを意欲できるかを自問してみればよい。そうすれば「私はなるほど嘘をつくことを意欲できても、〔誰でも〕嘘をつくべしという普遍的法則を意欲することは決してできない」ことに気付くであろう。なぜなら、嘘の約束をするという格率が法則になるならば、「本来いかなる約束も存在しない」ことになり、したがってそうした格率は「普遍的法則となるやいなや、自らを破壊してしまわなければならない」からである」(同上、p.54)。

なぜそうなってしまうのか。格率の従うべき法則に要求されるものがそのアプリオリな妥当性のみだとしたならば、なぜそれがどんな状況にある人にも一般化されたとしても大丈夫なものにならなくてはならないのか。
そもそも人の置かれた状況は一回的・唯一的・個別的なものではないか。常識的には、ある状況はある人に一度起こるだけである。そのときのことを考えるか、そのまったく同じ状況に置かれた場合のことだけを考えればいいのに、なぜ、すべての場合、しかもまったく関係のない場合に対してそれを適用することを考えなくてはならないのか。なぜそんなところまで飛躍しなくてはならないのか。

そしてカントは、道徳法則に従うなら、悪人に追われてきた無辜の友人をかくまい、そしてその悪人に友人の居場所を聞かれた場合にも、(ごまかすのでもなく)事実を言うべきなのだと言う。

定言命法第一式をもう一度見てみよう。

Handle so, dass die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.
君の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。

結局僕には、カントの論理は、そもそも格率が従うべき道徳法則の内容を問うていたのに、途中から、道徳法則は普遍的理性が導くのだから普遍的であるべきなのだということを介して、どんな状況でも同様に妥当するようにした場合に元の行為がそれとして矛盾なく成立しうるような行為をすべきであるという方向にねじれていっているように見えるのである。
この定言命法の「普遍的立法の原理」を「道徳法則」に置き換えれば、それはもとカントが言っていたことで、それは格率が道徳法則と一致すべきだ、つまり、意志が義務に従うべきなのだ、ということである。
それだけだったのが、いつからか、道徳法則にまつわる、それを導出する理性の普遍性からくる「普遍的」という言葉を介して、「いつでもどこでもだれにでもあてはまってもおかしくならないのでなくてはならない」という契機が紛れ込んでしまったように見える。

もし仮に僕の読みが正しく(間違っている可能性もあるが)、つまりカントはアプリオリな道徳が可能だという無根拠な前提から出発して、ねじまがった論理で定言命法を導いたのだとしたならば、カントは価値の原理がこの世界に存在することをまったく示せていないことになる。


カントの論理が仮に正しく、「どんな状況でも自殺はしてはならない」のだとしたならば、それはそれで先日書いた反出生主義の議論、つまり快苦の総量比較だとかそれにまつわる善悪・正不正に基づいて生を否定する論理に対する反論として大いに機能しうるだろう。

(そういえば関係ないが、イギリスにはすでに反出生主義を謳う政党、ANP(The Anti Natalist Party)が活動していて、「静かに支持を集めている」そうである。)

だが、17世紀以降、そのような功利主義的発想とあいまって倫理学の二大潮流をなしてきたカントの規範倫理学の基礎が、もしそもそも間違っているのだとしたならば、その反論がなしえないどころか、規範倫理学的な議論の基盤・原理が、そもそもあやういものだったことになってしまうだろう。

「結局すべては言葉に過ぎない」。
これがどの程度まで言えるのかはわからない。

今日デイケアのスタッフさんは言った。
「みんな、カントとかキリストとかブッダとかにだまされとるだけやねん」。
確かに、「権威に盲従して妄想を信じ込む」ということはありうるが、このような(宗教団体だけでなく)宗教性一般を全否定するような言説に盲従することもためらわる面はある。
ただ、権威に権威として従うのではなく、それが修行しないとアクセスできない境地に基づく権威であれ、思考の水準が高くないとアクセスできない理論に基づく権威であれ、啓示を得なくては理解できないことに基づく権威であれ、まずは疑ってかかるというのは必要なことのようにも思われるのは確かである。

僕自身はおそらくそういった、生に意味を与えるなんらかがなければ絶望するだろう。
もし宗教的なものに頼らないでも生きていける人を強い人間だと言うのなら、自分は弱い人間、脆弱な人間だと言える。

だが、だからこそ、それを求める道を諦めるわけにはいかないし、それが他者にとってなんらかの意味を持つということもありえるだろう。

結局長くなってしまったが、今日の記録はこのぐらいにしておきたいと思う。