反出生主義の批判的検討 | 生きる苦しみと希望の記録

生きる苦しみと希望の記録

日々思ったことを書いています。生きる意味について書いたものが多いかも。

今日は自由参加のフットサルの試合で、出る予定でエントリーもしていたのだが、いくつかの理由により棄権した。
それはまず、実力的に活躍できないこととさほど楽しめないだろうということがあるが、それでも挑戦するのは悪くないだろう。
しかし最近不調が立て込んでいるので、途中で調子が悪くなるとかなり苦しい中で試合しなくてはならないだろうから、それは避けたかった。
また、昨夜新しい保険証を手に入れたのだが、その変更連絡をメンタルクリニックと歯医者に月末までにするべきであり、今日しなければ来月頭になってしまう状況だった。
そしておそらく一番決定的だったのは、読書はなかなかできないものの、読書可能な時間、つまり読書の機会ぐらいは、読書できないにせよ、確保すべきだと思ったことである。

それで結局今日は次回発表担当になった読書会の資料を読んだり予定を済ませたりしていたのだが、一方でいろいろ考えることもあった。
ここでは今日考えたことについて一部記録したい。

まず、先日知人に、自分は苦悩をアイデンティティにしている面があると言われたことについてである。
実際、僕にはそんなところはあるように思う。つまり、自らの苦しみにある意味でプライドを持ち、それを誇りにしているような部分があるということである。
これ自体は、今までの圧倒的な苦悩経験の現実に折り合いをつけるための自分なりの心理機制や意識的・無意識的な心理的試みの結果だったのかもしれないが、ある意味マゾヒスティックで不健全と評価できなくもない。
この意識は、「自分以外にも苦しんでいる人がたくさんいるのだから、自分だけそこから抜け出して人生を楽しむことは許されない」のではないかという、一抜けぴ拒否の意識と結びついている気もするが、これもやはりある観点から見ると不健全で、そもそも楽しんだらいけないというのは間違っている可能性もある。
さらに、その意識から「人生は苦しみだ」ということを一般化し、人生一般を否定する思想を案出するようになった場合、それを吹聴して回ったり、その姿勢で他者に接するようになるとしたら、それはある意味、特に人生を楽しんでいて生きたいと思っている人たちにとっては、はた迷惑な話である。

おそらくそれを徹底した人たちの中に、反出生主義者の一群がいる。

反出生主義は、一切皆苦とまではいわないだろうが、人生は概して苦しみだという前提に立った上で生を否定し、生まれるべきでない(なかった)、そして新しい生命を誕生させるべきではない、と議論する。

この説については、例えばネットの掲示板では、「こんな小学生でも思いつくようなことを言って哲学者とかおかしいだろ」という意見などが見られたが、おそらくそう言う彼らはこの考えを徹底できていないか、少なくともこの思想を血肉化し実行はできていないとは思われるので、言わせておけばよいかもしれない。

実際、ある意味、輪廻思想を前提とせずに生存の苦しみを直視したらこう言う結論になるのかもしれず、その意味でこれは現代のブッダの意見である可能性もある。


また、反出生主義は割と穏便な思想である。
なぜなら、彼らは、まずは人類は滅びるべきだと思っているが、人類を力ずくで滅ぼすべきだとは思っていない。
彼らは、世界の苦を減らすことを正義・善とする共通の地盤、つまり理不尽な苦痛を減らしたいという考えの上に立っており、ある意味でこれは人権思想の行き着く果てであるとも言える。
結局、ある人間が生きるということは苦難の連続であり、また、そうでないとしても、その生は必然的に他の生の場所を奪い、他の生命に苦しみを与える。
だから、彼らは動物の権利を主張するようなエコロジカルな議論と親和的であるようで、結局理想状態としては苦しみを感じ得るすべての生物が死滅した状態を想定している。

彼らは自殺すべきだとも他者を殺すべきだとも言っておらず、もう生まれてしまったのであればしょうがないからできる限り楽しい生にすべきだと考えるようである。
しかし、その上で可能な限り自他の苦しみを軽減し、段階的に苦しみを感じる生命の数を減らしていき、最終的には絶滅することを理想とする。
つまり、可能な限り苦しまないような手順を踏んで生命を滅ぼすことがこの思想運動の目指すところなのである。

ただ、ちょっと考えてみると、どんな生命体にとっても基本的には、生殖とか、性愛とかパートナーとの共生といったものは大きな喜びの源泉であり、それを控えるということは不満と苦悩の原因になるだろうから、「生まれてくる子が不幸だ」と言うなら、子の利益とわれわれの利益は反目するということになる。
というか、一般に生命は生の延長や種の保存や共栄といったものを自然に欲望しているため、それを理性的にせよ強制的にせよ抑制することは基本的には苦しみとならざるを得ないことからして、一般には苦しみを減らすための反出生主義を実際に実行することは苦しむことを結果するということになり、したがってこれは自己撞着した思想だと言えそうでもある。

また、結局「苦しみからの解放は死である」という考えをあらゆる場面を考える基本に置くならば、たぶんそれはある場面では優生思想的になり、例えば安楽死・尊厳死や障害児中絶や死刑を推進するような思想を結果するだろう。
また、自殺を勧めはしないにせよ、それは自分が苦しんだり、他者を悲しませたりすることを避けるためなのだから、選択肢としては、それらを最小化してから死ぬか、死なずに最後まで他者に可能な限り迷惑をかけない生き方をして死ぬか、ということになる。
そうしてみると、そもそもこの思想は一般の合意や現行の道徳・倫理と反する面は大きいが、ある場面では真っ向から対立するものとなりかねず、倫理思想としては危険思想だと言われてもあまり違和感はない。

もし、例えばオウムが似たような思想、「この汚れた世界を清算しよう」といった動機でサリンをまいたならば、反出生主義は穏便であり、そんな衝動的で強引なテロリズムではないものの、根本的には同一の動機から動いており、ただ反出生主義は冷静で確信犯的で計画的に清算の任務を遂行しようとしているだけだとも言えるかもしれない。

やはりこの思想は、たまたま多少大きな苦しみを被り、またおそらくは生来の悲観性によるその増幅も相まって苦悩する(僕のような)人間が、ごちゃごちゃ考えた末に至った思想であるのも確かかもしれない。
ただ実際、この思想の基礎的な動機となっている、苦しみを直視し、それを可能な限り減らしたいという願いには共感する面はあるし、その意味で、この思想の前提のすべてが正しいならば、愛と正義は生の否定と矛盾しないのかもしれないとも思われもする。

共生の理想はもはや共生しないことだという、逆説的だが矛盾していない結論である。


しかし、他者の生と生殖の欲望を挫くのは他者に最大の苦しみを与えることでありえるから、もしできることがあるとしたら、まずは自分が自らの生においてそれを実行することだろう。
個人の自由意志を尊重するなら、生きたい人は生きればいいわけで、反出生主義者は彼らに意見を押し付けるのを控えながら、彼らを「欲望に振り回されて苦海に沈んでいく可哀想な人達」という目で眺めていれば、それだけならまあ問題はたいしてないわけではある。
逆に人生を楽しんで謳歌していて、生きたい人たちの視点から見れば、反出生主義者は人生を楽しむ努力をしないやつ、楽しもうとしないもしくはできない可哀想なやつで、彼らが悪いということにもなりうるのではあるし、そちらから見たら「ひとりで勝手に死ね」ということになるのかもしれない。

ただ、人間が死すべき生の運命を自覚してそれを理性的に捉え返し反省しながら生きざるを得ない以上、このような生肯定派と否定派が生まれるのは必然的ではあるが、立場をすり合わせたり一致させたりすることが不可能であったとしても、この反対の立場同士が対話し、それぞれの道を探る試みをすることには意義があるかもしれない。

反出生主義のテーゼは、苦しみを直視した場合、それは生の楽しみや喜びで相殺することが不可能な大きな負債であることがわかるのだから、それをすべて抹消すべきだというものである。
だが、確かに生肯定派から見たら、逆に生の喜びや楽しみを直視するということもした上で結論を与えるのが公平だろう。

彼らから見たら、生否定派はその喜びを経験していないだけなのである。
人生嫌なことばかりだとしても、そのほんの一部にでもいいことがあれば、それを糧にして生きていくということが人には少なくとも可能ではある。
その人にとっては、そのいいことが、他のすべての苦しみを相殺してあまりあるものなのであり、その「生きててよかった」という瞬間のために、もしくはその瞬間を求めて、生きるということも正当化されえるべきなのだろう。
それは共生の喜びでもありうるし、苦しみがあってこその達成や超克の喜びであるかもしれないし、おそらくそれは人それぞれなのだが、彼らにとってはおそらくそれが瞬間的にでも存在すれば、それ以外のすべての苦しみを相殺するのに十分なのである。
それらから見たら、反出生主義は、不幸と同時に幸福もすべて滅ぼしてしまうような、産湯と一緒に赤子をも流してしまうような、本末転倒の愚行なのであり、虚無によってすべてを破壊する悪しきニヒリズムなのである。

というか、むしろ、このような、反出生主義者が基本的に前提としているであろう、「苦しみと喜びの比較」という観点自体が批判される地平も考えられ、その方が事実であるという感じもする。
確かに、例えば心理学の尺度においては、QOLだとか、生きがいをどれだけ感じているかとか、どのくらい抑鬱的かとか、どのくらい楽観的か・悲観的かといったことが数値化され計測される。
しかし、それはただそうやるのが流儀であるだけであり、本来は人間の経験というものはそんなに簡単に数値化し比較できるものではない。
それは、量の面でも、質の面でも、比較という行為をそもそも超越したことがらなのである。
むしろ経験というものは言葉によって意味づけられ、その中で解釈され、評価されるものであると同時に、あるとき、ある一時点における経験の解釈は、その経験のただなかと事後の複数の時点においては、いつもぜんぜんちがったものでありうるようなものである。
そのことだけ踏まえてみても、反出生主義の立っている、快苦の貸借対照表による人生決算が客観的に可能であるとでもいうような前提は、そもそも間違っているとも言えるだろう。

もし反出生主義がこのような「決算可能性前提」を自明と考えてその基盤の上でその主張を形成しているならば、この時点でその立場は論拠不成立であり、確実なものとしては成立しえないということがわかる。
そう考えるとやはり、生を肯定する人たちの内ほんとうの意味で生を肯定できている人にとっては、反出生主義者の主張は「余計なお世話」なのであり、視野の狭さから来る謬見なのである。

ただ、現実においては、人はそういった考えに毒されることもあれば、前向きに生きるがゆえに自他の苦しみを忘却する存在でもある。
人生を肯定する人が、生きたいのに、楽になりたいのに、苦しみの内で自殺による解放を考えている人を、生きて肯定をつかみとる方向に励ますことはそれなりの正当性がある。
それに対して、苦しい人が楽しい人を死に追いやるのは常識的には完全に間違っているし、その生否定論者が苦しみの内で自殺を検討している上記のような人を励まして自発的自殺に向かわせ、実質的に幇助するということも、やはりどこかおかしいような気もする。

確かに、世界にあふれている苦しみとどう対峙するかとか、どう苦を相対的にでも軽減し、もしくは乗り越えるかというのは非常に大きな問題で、それがいかなる地盤から可能なのかというのは依然深く問われるべき問題ではあろう。
前の日記のハンセン病の人生や、無差別殺人の被害者になったり、さらにはその加害者になるような人生を歩む運命を課せられるとしたら、それに対し、例えばディオニュソス的な運命愛の立場からその永遠化に対する聖なる肯定Jaを唱えられるかといったことは、深刻で抜き差しならない実存的問いでありうる。

僕にとっては、そのよすがは、もし事実あるとしたならば、正直なんであっても構わない。
信仰や意味の立場であっても、苦を滅する道を歩む立場であっても、それが正しい答えであるならばなんでも構わない。
ただ、生という問いを正しく見つめつつ、すなわち生に伴う否定性も含めて生を直視しつつ、そこから肯定を取り出す作業を遂行したいだけである。

デイケアの人が、「我が人生に一片の悔いなし」という、北斗の拳かなんかの言葉を引いていた。
僕としては、そうありたいが、そのキャラのようにはなりたくはない。なぜなら(あんまりそのキャラについて知っているわけでもないが)、極悪非道の限りを尽くしてそれを言うことは、ある意味思い込みに基づいた自己欺瞞だからである。

おそらく生をほんとうに肯定するには、直接的な肯定を離れ、生の否定をいったん迂回する必要がある。
しかし、その結果は、生を否定すること自体、つまりは死の教説に倫理性を見出すようなものであるとは限らない。

生は主体によって絶えず創造され続けるある種の物語であり、ドラマである。
その経過において反出生主義的な立場は現れ得るものでもあるが、それは弁証法的に超克される可能性を常に持っているとも言えるだろう。

もちろん生は端的な論理や理屈ではなく、文字通り生きられるものである。
その中で肯定を紡ぎだせるのかはわからないが、それに取り組み続ける道は、確かにそれ自体として生に少なくともある種の意味を与え得る道になりうるだろう。