おはようございます。

昨夜は、書道のお稽古がありました。


房仙会三島校の火曜教室に

この秋入会した2人。



性別も生い立ちも職業も異なりますが、

入会理由が似ています。


・級なんて関係ない

・字が上手に書ければいい

・人間的に成長したい


名より実を取るという?!

こういうタイプが、実は伸びるのでは

ないかしら?


昨夜は、その内の1人から質問が出ました。


「集字聖教序の原本は、1つでしょ?

なぜ、(拓本から転載したはずの)印刷物が違っているの?」


素直でまじめゆえに、スルドイ着眼点。


この質問に答えるため、

房仙先生と光孝先生は、古い法帖を調べ、

仮説に辿り着きました。




集字聖教序は、王羲之が書いた字を

唐の時代になり、お坊さまが集めたものだから、

一つの法帖の中に形が異なる字があっても当然。


『空』という字を例にとると

頁によって微妙に形が異なっていたのです。


それを複写して編集すると原本から

違ってしまう場合もあるらしい。


『空』は多少形が違っても同じじゃん、と思う人と


『空』は空でも何故形が違うの?

どっちの字を手本に学べばいいの?


あれ?と思ったことをそのままにせず、

掘り下げて答えを求める人は、


探究心が強く、大きな結果に

辿り着くのではないでしょうか。


房仙先生は、書で大事なことは


頭を使って書くこと。


だと仰っています。


日本語の意味は分かっても

具体的にどうしたらいいの?と

迷っていた私にとって


頭の中で”電球がパンッ!”と灯るような、

出来事でした。


また質問した生徒さんは、

小さな差異をスルーせず、

「知らないから、教えてください」という

謙虚さもお持ちでした。


素直な目で、見るべき所を見る。


それは、いつだって目の前に

有るのだから。


見る・見ない・見えないは

本人次第だろうと思います。


書道のお手本も

身の回りに起きる現象も

人間関係も。


一切の思い込みも無く

物を見る目を養う事が、書の道かと。


ちょっと大げさですかね。


そんなこんなで、

若い仲間に刺激を受けました。


房仙先生も色んな生徒がいて楽しい、

三島教室も盛り上がっていくわよ〜と仰って、


笑顔でお稽古を終えました。