母の実家は、昔、製材所と農業をしていたと母から聞いたことがある。

 

白い眼帯をした祖父の写真を見たことがあるが、長男と機械で製材をしていて、息子と言い争いになり、そのとき製材していたものが飛んできて、片目を怪我したらしい、

私が生まれたときには亡くなっていて実際に会ったことはない。

 

 母が言うには、自分の娘時代はおっとりとしていて、のんびりしていたというか、本はとても好きでよく読んでいたと言う。

妹が一人いて、私の叔母なのであるが、妹は機敏で考えるより先に行動が早く、少々男勝りのところもあり、

 

祖父からすれば、姉はアホで、妹は賢いと思えたらしい。祖父は自分の娘に対して「お前はアホだ、妹は賢い」と、いつも言っていたらしい。

 

 私のまったくの想像であるが、たぶん私の母は祖母に性分が似ていたのかも知れない。祖父は妻の性格の嫌な面を持っている娘に対して、イライラしていたのかもしれない。

 

そして、これもあくまで想像であるが、祖母も自分の実の親からうとまれ、鈍い、阿保などと言われて育った可能性も無きにしもあらずである。

 

 母は娘時代に、自分に自信がなく「妹は賢い、私はアホや」と思い込んでいたのだろう。私が高校生になった頃、母が自身の娘時代のことを私に話したことがあり、

 

母が祖父にそんな風に言われて育ったということを知ったのである。

 

 そして、母が70歳を過ぎたころのある日のことだった。母が私の前で何気なくつぶやいた「ミヨちゃん(妹)は賢い、私はアホや」と、

私は母のつぶやきにショックを受けた。

 

 私は思ったのである。「親の育て方ひとつで、子の一生が左右されるのだ」と、自分の妹に対するコンプレックスを母は生涯、抱えて苦しんで生きてきたのである。

 

 私は娘夫婦に「他の子と比べて、わが子を叱ってはならない」(人それぞれの個性があり、人それぞれの長所があるのだ)と教えました。

 

 私が中学生の頃か、母は近所の人が10人ほど集まる小さな宗教に入って、その教えを一途に信じ込むようになった。

 

きっと、自分にとって揺るぎない絶対に信じられるものが欲しかったのだろう。

また自分の夫(私の父)を頼りなく思い、絶対に信じて頼れる存在が欲しかったのかも知れない。

 

後に、これが一家離散、私の強迫神経症の発症につながったのである。

 

 母方の家はとても神経質な性格の者が生まれやすい血筋なのだろうか、祖父が神経質だったのか、それとも祖母が神経質だったのか、祖母はうつ?だったのか、母の弟である叔父も60代で軽いうつ病になったと聞いた。

 

 私自身は三人兄弟の末っ子で生まれたが、性格は母親似で、のんびりしていたのか、そして神経質であった。

 

家族の誰かが、私のことをボーっとしていると、けなしたのだろうか、幼い自分であったが傷ついた記憶がある。

 

幼稚園では遊戯室で活発に走り回る子を、おどおどして眺めて立っていたことを覚えている。

 

 小学二年生のときには教室でKという女の子から「牛っ」と面と向かって言われてひどく傷ついたのを、今、高齢といわれるような歳になっても覚えている。

 

私はとにかく、愚図、鈍い、のろまと言われるのがとても嫌でコンプレックスとなった。

 

 晩年の母は川柳を作って、よく地元の新聞に載っていた。母が亡くなったあとに、長兄が歌集として一冊の本にまとめ、親類縁者に配った。頭も良く賢い女性であったのだと、息子としてそう思えた。

 

 私は妻とも話して、娘たちに対して、褒めて育てるように努めた。

 

子供の育て方については、「子育て十訓」として、最近まとめたので、このブログではないが、別のブログで掲載して、

 

最近、孫を連れ外国に移り住んだ娘夫婦にも伝えた。

 

 私は思う、神経症を全治した者の務めとして、神経症やうつなどの予防と克服の方法について、自らの体験を通して伝える役目が自分にあるのだと思うのである。

 

 

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