台風の季節が本格化又本番の舞台を迎えるは9月という勝手な過去からのイメージがあります、仕事柄により様々かも知れませんが、雨風に晒されて仕事をしたり外出移動を余儀なくしたりする中での交通規制や顧客対応や管理は体力に加えて心労もあり、台風の有り無しで或いは天候に左右されるようなお仕事に従事する方々においては、明日が雨かそうでないか今日が雨かそうでないか、を日々気にする時期は気が気でないちょいストレスフルな季節になって来るかも知れません、
大変失礼致します
ごうさんというペンネームでブログを気ままに更新して観ます
人は、人それぞれですが、自分を他人に分かって貰いたい知って貰いたい癖又機能性があるように想い観ます、分かって貰いたいほしいが故に議論や口論が絶えず知って貰いたいほしいが故にそれが誘因又動因となって行動源になって自分自身の立ち位置や存在意義や勝ち又は生きる目的や意味を見出せるそうとする物語性も編むようにも想い観ます、そうした自分自身を省みること気付いてくことは逆の立場にある他人にも自分自身から考えて他人を分かろうと知ろうと理解しようとする心理的経済とも想える人の社会ネットがあるようにも想い観ます、分かる解らないは、ある種の判定です、知る知らないもまた単なる体験や経験としてだけでなく主観的に知っていると認知することと他人から観る知っているなという判定は又別の物語性が交錯し、それは自分自身が他人を観る場合でも同じく知っているなこの人と想ふ事と知らないなこの人と想ふことそのものは、センサーとしては感じるのではなく無意識レベルの慣習くせやエコな機能性から生じる頭の世界であり判定結果であるようにも考えて観ました、分かって貰いたい知ってほしい理解して貰いたいほしいは、気持ちや感情的に今のところそうであると考えられるかも知れませんが、それが生ずる手前に分かっていない他人が多すぎる理解していない他人が山ほどあって知らない人が五万といるこの世界において、社会経済的に自身が生きること自分が活かせて生き流れて流通しながら人のネットワークの海でその座標を認知するには、先ずは分かって貰おうと理解して貰おうと、ここにいること、こうしてあること、その存在をない事にしない為に、されない為にも他者の脳に自分自身を刻み込むアプローチが知って貰おうとする事物語性となり、いわゆる事業活動における広告宣伝営業活動に値する他人への認知操作や干渉のメリットを前提として自分自身を売り込まなきゃいけない物語性に追い立てられるのかも知れません、分かって貰う為には知って貰う必要から始めた物語、人それぞれですが人は、この世界に出荷された時点で氏名を授かりラベルされて以降、売れなきゃ意味がないという無意識の心理的経済活動思考に縛られて仕舞うのかも知れないと仮定した場合、どう分かって貰うのか、どのように理解し知って貰うのか貰えるのか、ギャップを埋める努力行動が大量生産された自分が生き残って往く意味として無意識した場合、先ずは底からリセットし直して観る物語を考えて観る物語、他人に対しても同じようで、分からなきゃいけない理解しなくちゃいけない、受け入れなきゃ認めなきゃ許さなきゃならないいけない、と日々自分と他者に対して努力意識行動する方々も多々いらっしゃるかも知れませんが、分かって貰う必要があるのか、解らなきゃいけない必要があるのか、理解し知り、貰いたいほしいからそこに、なんで?どうして?1択以外の可能性や物語性を創造できないかを感が得て観ると、それだけに縛られる必要性もなく底だけに自分から自身を縛る必要性もなく、何かと人間の中で生きようと努力することそのものがしんどい又理解し難い或いはごく単純な疑問として、なんでこんなに自分は必死にになって他人に理解して貰おうと病みつきにならなきゃいけないのかを考え直して観る場合、そこから会えて自分が自身を解放して上げる物語、いいかわるいかではなく、判定ではなくジャッジの外側へ誘う為寄り道みち草する物語として、口に葉っぱを加えて風を陽光を身体いっぱいに浴びて道から外れて時には、先ずは自分を分かって貰おうとしない物語を編んで観る物語、誰かかに知ってもらわなきゃ生きて行けないとプログラムしたその前に遡って、誰かに知って貰わなくとも誰かが観ていようと観ていないとも、私はわたし、ここにいる、ここにいま生きているよ在ることをまだちゃんと自分が1番知らなかった物語を知ることから始め直して観る物語、苦しい事も痛みを感じる事も生きづらい事もしんどい事もめんどくさい事も不真面目であざとく強かな自分もいまここにいるよと自分自身が知る物語、底には他意はなくただ在るのみの自然を観る物語、ジャッジしないのは難しい藩邸しないなんてほとんど自動的でそれも又難しい、ならば先ずは、分かって貰いたいほしい理解して貰うする知る必要がある経済からみち草して、たまには分かってくれなくてもいいやと考え直して観る物語、不安になるそれもいいやそうなんだ自分って観る物語を考えて観ました、認めなくても出来なくても受け入れられないくても難しいくても、それもいいやって、嗚呼そうなんだ自分って笑って観れたら、これまで必死にしなきゃやらなきゃとして来た生きて来た道から外れてたまにはサボって観れたら、世界は又違って観えるかもしれない自分への休息休憩休日安息日を編む物語になり得るかも知れないと考えて観ました
以上大変失礼致しました
本日もよきかな一日をどうぞ
ありがとうございました