お盆から考えて観る始まりと終わりの物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

日本で生まれ育ち日本に人生のその大半や全部を居住し暮らして生活して来た人それぞれですが、ならば、オボンという音を耳にした事はあるであろうと想います、何事にも例外があり知って当たり前だと自分自身が想ふところでも、案外知らない人もいらっしゃる前提はありますが、今回はそのたぶん当たり前な日本のオボンというモノについて音から何か考えて観ようと考えて観ました

失礼致します、ごうさんというペンネームでブログを気ままに更新して観ます

死者の霊又霊魂や魂魄というモノをこちらの人の領域世界とあちら彼方の領域世界に分けて捉えて観て、その世界と世界との境界線彼岸を境にして人それぞれですが、あちらの領域の存在と繋がる機会を設けて考えて創造して観る物語性、それがいわゆるお盆という期間時期を表しているようにも想います、取り分けご先祖様や身近に会った家族との会合とも懐古とも想えますが、自分たちが住む土地に代々受け継がれて、大地にその土地に縛られて生きるモノとして、生きた自身たちの証を連綿と忘れて終わないように、その土地に生まれその土地に育まれその土地に生きその土地に眠り新たに生まれ出るモノたちが自身たちの物語を忘れて終わない様に奇しくもその期間だけは、非日常を儲けて自身というモノ自分というモノの存在を想い捉え直して観るある種では、小さくまとまったグループ内におけるこの人の領域世界にあり得る円環の物語性と変化や諸行無常の物語性をも人それぞれがそれぞれの捉え方や観方や考えや感覚というモノを使って何かが始まり何かが終わるコトを示すひとつの人の理のような物語性について想い考えて観ました、お盆とは前述のようにオボンという音として響きとして捉え直して観ると、オ、ボン、例えば、オン、とボーン、のような音として分けて考えた場合、オンは音とも隠とも、御とも又描き換えて考え捉え直すことは可能かも知れません、又ボーンは、英語圏では骨、或いは生まれ出るという音から拾える日本言語とは又違う意味の言葉に縛り直すことも可能で、偶然か意図かは解らないのですが、こうして簡単に分解して縛り直して観るだけでも、お盆に内在する音の中には、人の領域にある生まれ出る事、骨となる事、そうして覆水盆に返らずよろしく過去には遡ることは出来ない不可逆性の物語を携えている世界の中で、人それぞれですがせめて遡れないのならば、今に共に現在することが可能な試みとして、その記憶にその意識にその土地に人の先人たちの生きた証を残し刻み忘れないよう消えて終わないよう想い出す為にいっしょにこれからもずっとずっと共に生きる為、家族を養うのと同じ包み方でもって身体を持ちながらこの人の世界を生きるモノたちは扶養しこの世界に生きていないモノたちは供養するという観で、人はそれぞれですが生きること生き続ける事生き残って往く事の物語性を編むのかも知れない物語、ただのマニュアルで面倒くさいけど自身のネガティブな損得勘定方の目で観て執り行う行事であったとしても、底には忘れて終わないようにする生き続ける息づく何かがあるようでいて、このお盆という物語性を人として日本で接した皆さまに於かれましては、今年も又知らないうちにかも解りませんが、何かが終わりを勝手に告げ又告げてゆき何かが勝手に始まり又始まりを告げるようにも考えて観ました、国は違えど民族は違えどもこうしたお盆を迎え送る物語性は国際的にも様々あると知りますが、バチが当たるとか人生の幸運に幸福の為にとかいろいろあってもそれは置いといて、人がこの領域で生きることの死生観を身近に置くような物語性或いはその仕掛けエンタメ性は、失われた古代文化や文明や人の歴史を超えて、今も尚現在するその意味するところについては、デリートされないしないそうした必然性をも想わせる何かしら大切なメッセージ性や自身にとっての今のヒントになり得るモノがもしかするとあるのかもしれないとも考えて観ました、オボーン、人それぞれですが人はそれぞれ知らないうちに生まれ知らないうちに生まれ変わり知らないうちにそうした自分と自分自身をで現在して往くのかも知れません、これまでの自分を忘れて終わないように供養し共に生き、これからの自分を自身で扶養する形と形なき領域世界の物語、

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました