願いを叶える物語を考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

おそらく人は、願いを叶える為に人それぞれですが人は何かしら行動を興します、その結果、願いが叶ったとか叶わなかったとかいう判定が個々に訪れると想いますが、基本的に叶わない願いはないと仮定して考えて観る物語です

失礼致しました

ごうさんというペンネームで

ブログを気ままに更新して観ます

始めに結論から申し上げて観ますと、願いを叶えたければ誰も観ていない状況状態環境下でも願いを叶える為の行為行動を一貫して起こすやるするし続けるという事が重要だと考えて観ました

願いを叶える為のアクセスツールとして引き寄せる法則という仕組みがあると想いますが、その仕組みを活用するにあたっても、一貫するというところが少し難解に感じる人もいるかも知れません、行為行動の一貫性とは、いわゆる人における意識や精神や身体や知覚的な感覚、想い感情願いや日々の膨大な思考の海や気分気持ちに至るまで、何を想い何を考えて何を決断し何を選択しその間中も常に何を想い何を考え何に気に取られ何を意識し選択した何かをやるする考えるにしても又その間中も前述よろしく、常に願いがこの世界に生まれて来た時から願いが叶うまでのその願いの人生において一観したモノを貫き通して往く物語性が求められるようにも考えて観ました、それを見つけた後それを観ることを続けられるでしょうか、観ることを続ける一貫性とは、例えばボールをひとつ見つけたとき、そのボールの姿形を目の前に観ることだけでなく、そのボールが目の前にない環境においても常にそのボールの姿形や質感やそれに触れている感覚とそれがある喜びに浸り、そのボールの生きた存在を在り有りと夢観ることができるのかどうかというポイントです、常に願いはその願いという存在をどんなアプローチであれ観続けて往くことで、その願いは我が子のように観られて育って往く物語性を伴うとも考えて観ました、他の事に気を取られて一旦は観えなくなることも多々ありますが、それは子どもがいた時には、家事もあるしお仕事もあるし友人との付き合いや趣味もある中で、子どもがそもそもウチに居たっけ?なんて忘れ方はしない限りは、子どもに接する機会があれば子どものことを徹底的に愛する物語性を編むことが自分のこと、というお話です、この例えばで言うと子どものことと自分のことは又別にして考えていて、子どものことは勿論日々考えたりはするけれども、自分の時間も大切にしたいから自分の為に又別の自分のことをやる時間を割く、という物語性は願いに対する一貫性が薄れたり崩れたりして仕舞うかも知れません、それはとある野球選手が野球のことしか常に考えず野球という存在を常に一観して野球を想い野球を考え野球を感じ野球をやり野球を夢観て野球を語り又他者の野球も観たりしながら野球の為に出来ることはなんでも取り入れて野球の食事野球の運動、そして野球の睡眠と野球を理解する人たちと付き合って、たまには野球のことは忘れて野球以外の存在を観ながらも、野球との時間を大切に丁寧に常に温かい目で前置きに見守る野球という願いの育て方を一貫して来る日も来る日もやり続けて往く物語があると知ります、叶えるということは育てるということでもあり、願いという生まれて来た存在が全くの死を迎えるとき以外、存在に対する自分の愛を注ぎ込む物語人生が本気の願いの叶え方かも知れません、諦めてもいいのですが、それは願いの全くの死を観ることが無ければ生き続けている側面が有りますので、子ども居たっけ?よろしく存在の概念の外へ出すことがない限りはその願いに対しての愛する表現や行動はやり続けてもいいのかも知れません、飽きてたり諦めたりとかは、ほんの些細なほんの僅かな部分的な一時的なちょっとの点を獲得できるか体験できるかに非常に狭い範囲で観て結果を端的に判断し過ぎているだけかも知れず、叶うとはそうした一時的なスピーディーにすぐ終わる物語だけではないかも知れません、それは例えば、美味しいパンを食べたくなってパンを買いに走りパンを買って手にしてパンを食べておしまい、という願いの物理的な叶え方と、その好きなパンをその自身にとっては美味しいと想ふパンを食べたとき食べるとき食べている最中ずっと感じる幸福感覚を気持ちを愛を、食べたいなから買って食べるまでと食べたあとと、食べていないときも含めてずっと常に感じられるか想えるか夢観ることがやれるかするかという物語性とも言えるかも知れません、パンという願いを叶えることを諦めるとは、パンという概念すらなくなってパンを食べないだけでなくパンが見えない世界で生きるパンの死を迎えることとも想います、パンがある世界でパンという概念を自ら外すということは一般的に困難かも知れません、パンは事情があって食べない食べることが出来なくなってもパンに対する愛は注いで往ける物語、その物理的な獲得か形のない気持ちや気分や在り方を獲得したいのかで願いそれの観方も人それぞれですが変わって往くようにも想います、他者が見ていなければそれをしないそれができないそれを愛せないという自身の相は、一貫性を欠いて叶える物語は又別のチャートを踏んで無意識のうちに別の願いを叶えて来るかも知れません、何をどう叶えたいのかは常に自分自身の常次第な物語、たくさんの願いはブラフかも知れません、そのたくさんの願いを支えている共通のモノを観るとその一観を一貫性で育む覚悟はできるかどうかは、アクセスツールの活用に際しては重要かも知れない物語、今回は願いを叶える物語を考えて観ました、次はその願いを叶える叶えようとして行動する際に起きる仕組みの側面について描いて観ようと想います

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました