なるかもしれない物語性を考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

ならない、という言葉が案外厄介だと言われることがあると想います、真面目な人純粋な人程、その情愛や熱情の余りに自分自身が信じるモノを絶対視或いは絶対的選択ともいうのでしょうか、ある種では信仰めいた信じ切った義務感のような観視により、自らをそのならないという言葉に縛り付けてしまうような魔法にかけている状態にしてしまう物語性もあるかもしれません、人それぞれいろいろあって様々ですが、共通の側面がひとつ挙げられるとすれば、言葉を駆使できるという部分だと考えた場合、人それぞれにとって言葉を他者への贈り物として意識するだけでなく、自分自身へのプログラム制御として内側に描かれいているコードとして大変重要な役割があるかもしれないという意識も又大切なのかも知れません

失礼致します

ごうさんというペンネームで

ブログを気ままに更新して観ます

概ね自分自身の日頃や日常における活動、それを支えてくれている誘因又は動因の元にある、人が動くためのプログラムコードについて考えて観ました、自身は日頃から何を頑なまでに真面目に信じて何を絶対視して何をなければならない、と義務観しているのかに気付くと、生きづらさの元やストレスの要因の中には、自分自身から自分を縛るが故に厳しそうなルールでゲームや課題にトライチャレンジをしているかもしれない物語性について考えて観ました、律するという上では機能性はありますが、縛り付けるという上では自分独自の縛りルールが返って自分を締め付けて不自由にさせてしまう側面もあるかも知れません、

例えば、なければならない、というコードは、派生して様々な活動に制御作用を及ぼしてしまうとしたら、その派生したコードは、例えば、しなければならない、やらなければならない、という、今日すること今やることこれから取り組むことなどなどの現実的な行動の選択肢の優先順位に影響を与える可能性はあるかも知れない物語

簡単に付け加えて挙げて観ると

お仕事に行かなければならない

家事をしなければならない

食事を摂らなければならない

睡眠をとらなけばならない

人間関係を円滑に上手くしなければならない

大人にならなければならない

社会人として観なりもマナーも言葉遣いも行動も考え方も知識も教養も立派に或いは又せめて標準的に平均的に普通にくらいにはならなければならない

他人に理解を示さなければならない

共感しなければならない協調しなければ、協力しなければ、ならない

挙げるともうキリがないかもしれませんが、

なければならない、というこの強力なコードが人のそれぞれですが生活のあらゆる場面で人の選択肢に影響しているかも知れない可能性について考えて観ました

例えば自律神経は、自立していますので、自身の意識的な制御に左右されて今日はこうしなければならない、というコードに縛り付けられることは余りないかも知れませんが、いわゆる目の前の現実に対してどう対応どう対処するのかという行為行動については、人はそれぞれ自身を自律或いは自立する為に様々に制御選択をする物語性があるように考えて観ました、俗に例えられる他人軸か自分軸か、という議論にも、その根幹や要因の中には、自身の中に描いて書き込まれているコードの作用や影響もあるかも知れない物語

遺伝子は自身ではノートを書き換えるように変更して観ることは今のところ困難ですが、その遺伝子というデザインにあるヒントから自身を縛る呪のような物語性を考えた場合、遺伝子はさすがにどうしようもないかもしれないけれども、意思伝子、意識伝子、行動伝子、思考伝子、選択伝子、信じる伝子、と様々に書き換えて勝手に表現してもいいのなら、それら自分自身の中にある伝子構造を支えているコード、或いはその作用や性質や成り立ちや、そもそもの何でどうしてそれが自身の中に描かれているのか継承されて来たのかという物語性を改めて考え直して観る上でも、今の自分にとって最先端の自身にとって、自己アップデートを考えて観る物語について考えて観ました

なければならない、というコードが一概に全て悪いことでもないでしょうが、なければならない、により自身の今やこれからの成長や可能性の拡大に阻害するような要因があるかも知れない場合、つまりはちょっとずつ使いにくくなって来た集積の結果的に動きづらかったり対応しきれないような場合、より自身を使いこの世界を楽しむ為にという展開で、自分からなりの自己点検やパーツ交換や取り替えアップデート修理修繕のような末長く大切に取り扱ってくような付き合い方として、自分を構成する様々な様相について考えて観る物語

なければならない、は文字通り、それがないとならないとなれないと、自身が自分にかけてる魔法のコードいわゆる言葉でもあるように想い観ました

ならない!なんてある意味では自ら宣言して制約して誓約しているような物語性があって、

なりたい!という一方では、自身の内部にはその強力な制約誓約が発動して縛りますので、なりたいと想ふ反面なれないし、なりたい割にはならないなんて、悲劇にも喜劇にも観ることが可能な現実的物語について考えて観ました

しなければならない、やらなければならない、

訳ですから、そう決めてそうプログラムしてその現実を引き寄せる訳ですから、ならない!というモノがなる、というのか、成果物は結果的にならないモノが大量製作されるかも知れない物語

ガチャというスラング的なワードはしばらくトレンドなのかもしれませんが、自身が自分で描いたコードガチャについても興味深く考えて観ました

子どもの頃は確かに他者によってプログラムコードは書かれて来た物語性は否定出来ませんが、近頃の小さな子どもたちの一部を観ると、そうした他者から書き込まれてしまったコードをいち早く自分から書き換え直して観る人も散見される印象をを受け、ある程度はこの世界とは何かについての知見を得る上では、他者によるプログラミングは欠かせないですが、ある程度成長し学習し体験を重ねれば、自律して自立し、自己創造モードに変換してこのオープンワールドを自分から自分なりに楽しく生きて観る人がそれぞれですが、以前にも増して多くなっているようにも想い観ました

そうした何かに成るには子どもの頃からじゃないとならない、なれない、大人にずいぶんとなってからじゃ遅い、なれない、といったコード進行もある種の縛りであると想いますが、全ては今に贈り物として現実に投下され顕現し、今自分が観たという事がらあれば、それが何よりな宝物だとも想います、感度が鈍くなるとか頑固だとか表現は様々ありますが、贈り物を観測出来ない人は居ないようにも考えて観ました、いずれににせよ、ならない、という事は、ならないんだからなれないし、なる予定もないとしたら、ならない訳ないじゃんか的な、ならないかもしれないけど、なるかもしれないし、ならないらからやるんだけどもするんだけども、なるかもしれない、という事も常に念頭に意識して、自分は選んでそこにいるし自身でちゃんと選びましたという気付きの元に、例え仕方なくやるとしても、面倒でも、腐れ縁でも、やるからにはするからには自ら選ぶからには決めたからには、しなければならない、ではなく、しなければなるかもしれない、やらなければなるかもしれない、という、なれる未来をなる選択肢の用意をして観ると、同じようなコードも少しずつかも知れませんが、僅かなほんのその差異が、自身のうちがわを書き換えるかもしれない物語

しても、やってもなれない、

しなくてもならないし、やらなくてもなれない

ならないだらけな物語性に気付いて観る物語

ならないわなれるかもしれないから書き換えて観る物語

どうせなれないなら、

行かなきゃならないなら

行かなくてもならないとしたら

何に自身はなりたいのか改めて観る物語

ほんとになりたいと想ふなら、なければならない物語より、なれるかもしれない、なるかもしれない物語を編んで観る物語

以上

大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました