嫌を極める感度を高めて観るチャレンジを考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

原始的な人の社会や生きる物語上においては

現代と比較すると、あらゆるもの分野において

不便だったし理不尽だったし過酷だったろうし

生命体として生物として生きる物語そのものが

人にとっては冷酷で残酷で自然法治下の基に

辛くとも今日を生き抜くんだ何としても、のようなゲノムというのかゲーム性に従って、様々な人や種族が生きていた、と仮定した場合、今のこの時代にたまたま生きている生まれた人というモノは、なんと豊かななんと便利ななんと生きやすいなんと優しい世界なのか、とも想ふ半面、より便利により快適により人が生きやすい生き残りやすい環境下では、面倒なことには余り意識しなくてもいいような物語性というのか習性意識というのか、言い換えると、好きな事を考えようなんてまるでそんな余裕もなかった時代に比べると、自身の好きなことやりたいこと自身に会ったものなどなどのことを考える余裕、意識する遊びがのり代があるような気もして、だからこそ改めて有難う今というお話でもなく、好きだろうと嫌だろうと自身が生きるために家族たちが仲間たちが大切な愛する人たちといっしょに明日を迎える為に必死に今日をガムシャラに生きていたあの頃よりは、好きを考える余裕と豊かさがあり、加えて共に嫌いを考える余裕と豊かさがあるんだな、という物語性を考えて観ました、俗説的に人生をより楽しむ為には、自分自身の好きに従ってワクワクして歩む未知についてのお話もよくお聴きする機会もありますが、今の時代だからこそあるその豊かさや恵みというモノのひとつの側面を考えた場合、好きも豊かさ恵み余裕であり、又同時にそれは、嫌いも豊かさであり恵みでありそれを考えていられるだけの余裕がある、選択肢として選べる自由が高い素晴らしい物語性があるようにも考えて観ました、好きなことを考える余裕がある現代において、自分自身にとっての好きを追求して観るのも豊かさを楽しむヒントになりますが、今回は同じ側面を携えている嫌いを追求して観る物語について考えて観ました

大変失礼致しました

ごうさんというペンネームで

ブログを気ままに更新して観ます


自分自身にとっての嫌を極める嫌いをとんがらせる不快や嫌な気持ちや居心地の感度をなんか嫌だを意識する物語


人の集中力における持続性と個人差は様々ありますが、そうした人が持つそれぞれの集中力を活かして物事に取り組むパフォーマンスを効率を考えるという課題の研究がありますが、研究結果の過程において人にはそれぞれですが、何かしらの物事に取り組みに対して、嫌になるタイムがあるというお話があります、それは、ひとつの物事を同じように時間を繰り返し繰り返して行ったり、割と簡単なルーティンや作業などを長時間行動していると、人それぞれですが、なんか嫌だと感覚し始める、嫌嫌タイムのような存在についてのお話です、仮にもこのお話を活用して日常生活を観た場合、例えばもしも好きなことが解らない人にとって、なんでもいいからとりあえず何かしら興味ある物事に取り組んで貰ったとしても、どれだけ興味があろうとも、なんかいいなとか、なんか楽しそうだなとかあったとしても、繰り返し繰り返し同じようなことをやっていたり、長時間行動し続けていたりすると、その人における嫌嫌タイムが発動して、結果的に嗚呼嫌だと嗚呼疲れたと嗚呼つまんないという不快に侵食される物語性が帯びていて、好きこそものの上達や発達成長に繋がりますよ論も、やり過ぎはどうかというような、過ぎたるはなんでもかんでもあまりお勧めしないというような、いわゆる自分自身にとっての嫌嫌タイムについて気付き知ることが少し重要な気がして考えて観ました、三日坊主や優柔不断や飽きっぽいや、人の行為や行動についてはその連続性や持続性については、より長く息継ぎなしてダイブしていられるような人が優秀なような観測例はあるかもしれませんが、それはシンプルにその人たちにとっては、嫌嫌タイムに至るまでの時間が長く調律されているか、或いは又嫌嫌タイムそのものが麻痺していて嫌だという感度が鈍くなっているのか、そもそも嫌嫌タイムなんて機能として持ち合わせていないのかなどなどが考えられるところですが、大切なポイントは、人は健全に好きなこと好きなもの好きなひと好きな場所など様々たくさんある中で、好きな事にも飽きるんだ、という視点について考えて観ました、三日坊主でいいんです、すぐに飽きたっていいんです、他者に見習って他者と比較して他者と同じように長時間好きな事に連続して持続して取り組めなくてもいいんです、だってあなたは、そもそもの嫌嫌タイムがとっても短いまるで猫ちゃんよろしくなユニークさを持つ物語性を豊かなこの現代に生まれて生きているだけなんです、なんて例えば言われてみたら如何な印象を受けるでしょうか、嫌だということはダメだわがままだ協調しなさい我慢しなさい合わせなさい自分を出さないように様子見ていなさい見習いなさい、様々なたくさん自分自身を縛るテーマはあるかもしれませんが、それですら、それら大切だとされ教えてもらい受け取って信じてきた物語ですら、人それぞれですが個人差はあれども人の持つ健全な嫌嫌タイムには逆らえないと考えて観ると、今自分自身がつまらないと感覚すること疲れてしまうこと辛いこと続けられないことしんどいことなどなど、ちょっとでも不快に振れるカウンターがもしもあるとするならば、それはその人にとっての嫌嫌タイムに突入していますよ、というお知らせかもしれません

という物語

やり過ぎ、し続け過ぎ、長過ぎ、繰り返し過ぎ、同じ過ぎ、言い換えるとそのような座標に今自分自身は立ち位置としてありますよ、という事をこの嫌嫌タイムはわざわざ教えてくれる有難いタイマーなんだとも考えた場合、先ずは人それぞれですが、何をどれだけどのくらい取り組めば、なんか嫌になってくる何だか飽きてくるなんか集中力欠けてくるという、自分自身にとっての嫌について不快の感度について意識して観ると面白いかもしれません、嫌タイムになれば嫌だと勝手にむくむく感覚してゆく訳ですから、その健全性に従って、どんな物事もどんな物語も嫌になり始めたら、一旦やめてみる、一旦置く、一時的に離れて観る、ちょっと気分転換する、などなど人それぞれにある固有の嫌嫌タイムと上手くバランス良く付き合って行けたなら、これまで嫌いだったことも、ちょっとだけなら嫌いでもないかだとか、好きだと決め付けてこだわってやり過ぎ続けていたけれども、楽しめなくなってきた物語性などに対しても、嫌嫌タイムを避けて通れば、好きの連続性や持続性或いは又、好きについての根本的なリカレントに気付く物語があるかもしれません、

嫌を極める感度を高めて観る物語

仮に人それぞれですがもしも豊かで便利な現代において健全な状態であれば、好きも飽きるときあるし嫌いも飽きるときがあるように考えて観ました、嫌いなことをやりすぎて嫌いなことに飽きていて嫌いなことがより嫌いになるなんて、喜劇のような物語性がありますが、現代社会においてはそのような環境下でも頑張って頑張って生きている人もそれぞれですがいるかもしれません、それは嫌いな物事に取り組む自分自身がわるいとかいけないとか人生分かってないとかいうお話ではく、自分自身の嫌嫌タイムを先ずは感度を取り戻すことと、嫌な事でも人は嫌嫌タイムに至るまでの間くらいは、なんとか折り合いつけて個人差はあれどもパフォーマンスは発揮するというところと、だからといって嗚呼大丈夫だとかまだまだ我慢できるなとか、暑さ寒さも慣れれば無観になれるだとか、やり過ぎし過ぎ続け過ぎないようにする自分のバランス感覚について考えて観る物語


あなたの嫌嫌タイムはどれくらいなのでしょうか

例えば、意外にもデートなんかは4時間もあれば充分だなんて感覚とかもしかしてあるとしたらそんな感度を置き去りにしない自分の大切な取り扱いについて考えて観ました

つまらないゲームはやり続けないでとりあえず一旦置いて観る物語

以上

大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました