経験則と客観性について考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

やって観なくちゃ

解らない


やればできる


やらなきゃ

できない


行動が全て




動物である

限り

人も動くことを

基本設計に

して

出来ている

考えて観た

場合



この

行動に関する

物語への

観方捉え方が

人それぞれです

人生をシンプルに

するか

どうかの

ヒントに成りえる

かもしれない

考えて観ました




行動とは

何か


という

簡単な答えに

人それぞれ

悩んだりする

ことも

あるかもしれませんが



その答えは

冒頭の例文表現

のように

至って

シンプルです




行動とは

何か



やって観なくちゃ

解らない


やればできる


やらなきゃできない


行動が全て

つまり

動くモノたちである

以上は

動く以外の選択肢のない

物語に生きている

という

ポイント



そして

直ぐにでも

想い出して観る

ことができる

ポイントは

仕上がりは

どうでもいい

或いは

出来栄え

出来高

仕上がり基準

見本

体裁

気分

気持ち

動く事とは

ゴールが

違う世界観がある

と捉えて

考えて観ました





失礼致します

ごうさん

という

ペンネームで

ブログを

気ままに

更新しています




行動のゴールは

単純で

行動すれば

そうなる物語

手順やり方

などで

その方程式が

表現されることが

可能です



例えば

自分自身の手に

ボールがあった場合

そのボールを

地面に落とすこと

やろうとすれば


いくつか

方法が

考えられる

想います



それは

手にしている

ボールから手を

離す


ボールを地面に向かって

投げる

など


この物語では

ボールを地面に落とす

ことが

先ずはゴール

であり

そのゴールを

満たす為になる

行動が

手放して観たり

投げて観たり

することに

相当します



これが

やればできる


やらなきゃできない


であり


行動が全ての

基本的設計です



そこには

仕上がり基準に関しては

何も言及していません



どう手放すか

どう投げるか

どの腕の角度とか

どんな姿勢だとか

正しい手放し方も

地面に描いている

的の真ん中に落とす

などという

制限や制約も

ない世界が

観えると考えて観ました




ボールを地面に落とす

には

どうすればいいのか

考えるとき

想ふとき


やって観なくちゃ

解らない

という

人がいる場合



持っている

ボールを手放すと

ボールは地面に落下する

という

方程式をまだ知らないか

まだ観たことがないか

知ってはいるけど

そうならない世界も

あるかもしれない

という

世界観を持っている

人かもしれませんが




概ね

この単純な

ボールを地面に落とすには

どうすれば

そのゴールは達成可能か

確実かの

解答は

だから何

レベルで

当たり前の思考に

学習している世界観が

あると

想います




人は

経験則に基づき

繰り返した

経験や体験を参照し

そこから

学習して

物語のシミュレーション仮説を

立てる能力があります


経験則とは

人それぞれにある

その人その人に

基づく

主観的物語でも

ありますが



やればできる

やらなきゃできない

という

表現に割愛されている

原理とは

別の物語性を帯びている

考えて観ました



手にしたボールを

手放したら

落下する


木からりんごが

落下する


これは

経験則ではありますが

主観的物語を

超えた

客観的物語を

同時に含めています




人が人それぞれですが


自分自身の人生について

又はおいて

何に悩んだり

何に悩まされている

のか

少し落ち着いて

考えて観る場合



この

主観的物語に

縛られ過ぎているのか

客観的物語に

縛られ過ぎているのか

判別を行うと



行動そのものに

含まれている

複雑さ

と単純さを

分けて観ることが

できるかも

しれない

考えて観ました





料理をする人は

頭の中にレシピがあって

あるいは

レシピを観ながら

料理を作ると

考えた場合


料理を作る

ことが

ゴールで

レシピは方程式

と捉えて観ることが

可能だと考えて

観ました



別の言い方で表現する

目玉焼きを作るには

どうすればいいか

という

もんだいに

対峙した場合


目玉焼きが解で

目玉焼きを作る為にある

手順ややり方が

方程式

つまりは

レシピに

相当する観方が

できます



生まれて初めて

目玉焼きを作ることに

チャレンジして観る場合



やればできる


やらなきゃできない


やっているのを観なくちゃ

解らない


やって観なくちゃ解らない



法がありますが



ここにあるのは

表現通り


できるか

できないか


やるか

やらないか


観るか観ないか


だけであり



うまくいく

美味しそうにできる

体裁がいい

という

仕上がり基準は

関係ない

のが

行動の単純さ

だとも

考えて観ました



歩ける人は

自分自身の足で

歩くには

どうすればいいか

考えて観る場合


自分自身を

自らの足で

起き上がらせて

先ずは

直立不動に

立ち上がらせた

のちほどに

バランスが

取れている

体感を確信しながら

自らの足を

交互に前に一歩ずつ

出して観る試みを

していると

想いますが


今更ながら

毎日毎日

その挙動に対して


やって観なくちゃ解らない

やっているのを観なくちゃ解らない

やればできる

やらなきゃできない

などと

常に意識して

動く人は

少ないと

仮定した場合



そこで

大切だと捉えて観る

ポイントは


これまでの

経験則

主観性と

仕上がり基準とは

無関係な

やればできる

という

客観性

どれだけ多く

視点として

認識することが

可能かどうか

というところ

ついて

考えて観ました




カップラーメンに

熱いお湯を注げば

カップラーメンを

作ることが

可能である

物語は

いわゆる

アルゴリズム

とも

言えるかもしれません



やったことない

自信ない

そんな気分じゃない

やって観なくちゃ解らない

という

主観的物語は

干渉の余地はあります


そこには

シンプルに

解🟰手順やり方方程式レシピ

という

客観的物語の

演算処理が

確立された物語が

あります



やればできる

というのは

そうした

解が出る手順

であり

解かある

ことから

遡って観る

方程式とも

言えます




そうした

いわゆる

方程式やレシピの

数々は

人がこれまで

歴史的に生きて来た

足跡や連綿と

受け継がれて来た

微分積分により



ある程度は

やればできる

やらなきゃできない

やるかやらないか

行動が発振原理

である

客観的物語が

たくさん示されて

いると

想います



0から練り上げる

方程式は

日常生活レベルには

ないと

考えて観る物語



やれは

人それぞれですが

必ず

成せば成る

レシピが

ひとつの人生では

やりきれない

くらいの

レコードとして

あるように考えて観ました





ここで

人を悩ましく

させる物語が

あるとすれば

主観性です



人それぞれに

出来栄えか異なる

出来高が変わる

仕上がりが違う

という

他者との比較による

上手くいくか

褒められたものか

優れているか

気持ちがおさまるか

という観方

だと

考えて観る場合




やるかやらないか

主観は挟まない

観方が

これから

自分自身を

自由に動かせる

ヒントに

なり得るかも

しれない

考えて観ました




行動の結果は

客観的原理に基づいて

やればそうなる

やればできる

単に

解🟰手順やり方方程式レシピ

だと

考えて観る物語



気持ちや気分

自分自身が納得するか

どうかや

夢や理想的な仕上がり

出来栄え

出来高

人に自慢できるか

否かは

あくまで

自らの主観であり



やるかやらないかに

他者の評価や価値観

自らの評価や価値観

挟まない

コード

にして観る試みから

始まる物語

面白い観方になる

かもしれません




できる習慣

やればできる自信の

育て方

自己肯定感を

育んでゆくための

再構築や学び直しが

もしもあると

するならば



この

一助として

やればできる

単純なレシピを

如何にこれから

改めて

経験則として

集めてゆくか

自らに対して

思い知らせて往くのか

遠回りするようですが

自分自身を

様々に誤解させて来た

物語に

ヒントになるかも

しれないと

考えて観ました






アルゴリズムで

物語を読むことに

慣れて来た人は


なんで

しないんだ

なんで

やらないんだ

やれはいいだけ

なのに

想ふかもしれません




経験則だけ

主観に縛られ過ぎている

人には

そんなの無理だ

合わない

できない

続けられない

能力がない

気分じゃない

かつて駄目だった

などなど

出来ない理由を

無限に

想ふかもしれません




ただ

そこで

両者が観ている

世界は別の世界である

という

視点について

考えて観ました





あなたには

出来るかも

しれない現実

わたしは、わたし

出来ないことだってある



これは

アルゴリズムではない

物語



あなたの手にする

ボールは

手放せば

地面に落下する

かも

しれませんが

わたしは、わたし

出来ないことだってある



こうした

物語に

疑問の余地なく

はまっている

主観的な物語性に

気付いて観る

考えて観る

物語




足がないのに

足を生やせ

言っているの

では

ありません



車椅子で

生活する人の

中には

車椅子での

移動を

歩くと考え表現する

人もいると

知ります



その人が歩く為に

すること

やれること

解🟰手段、手順やり方

です




自分自身を

信じるか

信じないか

チャレンジするか

しないか

前に



行動の単純さ

気分や気持ちの

大切さについて

自分自身を知る上で

考え直して観る

物語





人は人それぞれです

自分自身が

出来る

ことを

いろいろ勘違いして

いるのかも

しれない

考えて観ました





解🟰やればできます

解🟰やらなきゃ出来ない



行動は行動すれば

行動という解を

引っ張ります



やりたくないこと

やらなきゃいけない

から

やる


という

物語は



やりたくないこと

🟰

やらなきゃいけない

からやる

という

解と方程式の

ユニっと

だと

仮定した場合



その経験から

人が学ぶのは

やらなきゃいけないことは

全部

解として

やりたくない物語性を

編む可能性に

ついて考えて観る

物語




やる気がでない

ではなく


やりたくないことを

かなり多くやり過ぎている

シンプルな

行動の物語

もまた




これからの

自分自身を

どう創り続けるのかの

ヒントになっている

かもしれません





こうして

行動について

いろいろ勘違いも

含めて考えて観た

場合

言いすぎかも

しれませんが

人に出来ないことなど

おそらくない

考えて観ました




経験則と客観性について

考えて観る物語



自分自身の主観性

経験則

気分気持ち

価値観好み

アルゴリズムを

分けて観る物語



簡単なアルゴリズム

から

始めて

やればできる

自分自身を知る

経験則を

再構築して観る

物語








以上


大変失礼致しました



ありがとうございました