点を結ぶ | ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ

ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ

ライン河沿いの古都、ケルンの街角から送る、人々の歌声をつづる日記

5月の初旬にして、太陽の照りつける、

まぶしい一日の午後。

この日を待っていましたとばかりにドイツ人たちは、

Tシャツやサンドレスなど、

思い思いの軽快なサマーファッションに身を包んで、

颯爽と駅構内を往来する。早くもこの国では、辺りも人々も、

夏本番の装いだ。

樹木の日々の変化には目覚ましいものがあり、

地球の息吹を目の当たりにするように、

緑の鮮烈さが日々度合いを増してくる。


こんな気持ちのいい日に合わせたかのように、

私の乗る、シュテュットガルト行きの特急は、

20分遅れで到着とのアナウンスが入った。

この国の電車の遅れは、もはやイタリア並み。

初雪が降った、霜が降りた、

零下になった、霧が出た、何でも理由をくっつけて

遅れるのがこの国の電車のシステムの特徴であるから、

今日は急に夏日が来ました、というのも

理由になっているに違いない。

20分ごとき、誰も驚きやしないどころか、

むしろ、西日にさらされた駅のホームで、

日光浴をしばし楽しんでいるかのような風情の老若男女たち。

私は一人で、日本では絶対に人前ではしなかったため息を、

大きくついてみせる。人々が冬の曇り空の中で電車の遅れを

聞いた時に一斉につくのと同じように、

少し大げさに。


やっと到着した特急は、何と通路や入り口に至るまで、

しゃがみこむ人や荷物で一杯である。

週末の特急は混むのが常だが、

この混乱はちょっと異常だ。

やっとこさ中に入って、押し進められるがままに

奥へと行くと、食堂車の立ち席へとたどり着いた。

そこも満員の客でごった返し、

人々は他人同士、横長の楕円テーブルを囲みながら、

ところ狭しと並び、向かい合っている。

仕方がないから私も一つのテーブルにもたれかかる感じで、

あるスペースを陣取った。

と、この電車、来るのも遅れたくせに、

一向に発車する気配がない。

人いきれでムンムンした車内を、時期早尚の冷房が

急激に冷やし始め、その勢いたるや、

あっという間にくしゃみが止まらなくなりそうな温度まで

一気に加速する。

ニョキニョキ大きい、杉の木のようなドイツ人サラリーマン達は、

ビールを注文して、半分宴会を始めだした。

「カンパーイ」

とグラスを傾け、その雰囲気に似合わないスーツ姿で、

「おーい、今晩はここで立ったまま野宿かよ~」

なんて、冗談にもならないことを言い合って大笑いしている。

そのうち乗り合わせたサラリーマン同士、

近くのグラマー美女を相手に、

ビールをおごりつつ、ジョークネタで口説き合戦に入ってきた。

あちこちで笑い声が起こり、そこから車内中の

空気がワイワイと統一化してゆく。前のおばあさんは、

向かいの若者に、「ちょっとアンタ、どうなってんのかしらこの電車。

あたし腰が痛いのよね」

と、答えようもないことを話しかけ、

横の中年同士は、

今日の互いの予定について半ば自己紹介がてら語る。

ビールや水の空き瓶だけが増えて、

人々は一層声高になるが、電車だけはずっと、

遅い午後の灼熱に照らされたまま、動く気配がない。


これと同じ場面をどこかで読んだ事があった、

と思ったら、すぐに思い出した。

今しがた読んだ、平野啓一郎氏の「文明の憂鬱」

にやはりこんな場面が出てくる。

環状線の駅と駅の間で、1時間半(この数字が、

日本ではニュースになりうるもので、

如何にこのドイツという国では端にもかけない出来事であるかは、

日々を過ごさなければ分からないことで、

それでも筆舌に尽くし難い!)閉じ込められたままの

他人である乗客同士が、妙な連帯感のもと、文句を言い合う、

というものだが、確かに同じ状況に遭遇した人と人には、

例え電車の遅れなどという命に別状がない場面でも、

急に他人を人間として意識して親密になりたがる空気が

発生する。

「皆さん!!この列車は、

ドルトムントで起きた人身事故のため、前の数車両を

切り離さざるを得ず、残りの6車両のみで運転しております。

今のままですと、人員オーヴァーで、

運行できません!どうぞこの先の発車のためにも、

任意でお客様の何割か、お降り下さい。」

ナンセンスなアナウンスに、客から、どよめきと、笑いが起こる。

「誰が降りられっかよ~。ばかも休み休み言いなはれ。

ここまでビールでネバって、待ってんのにさあ」

と、誰もが思ったことを、先のサラリーマンの一人が、

代表して叫ぶと、皆がまたドッと笑いさざめく。

日本の列車の中では、こうもあっけらかんと、

この状況を楽しめる空気にはならなかっただろう。

平野氏と乗り合わせたかわいそうな駅員に詰め寄る客の憤怒が、

目に見えるようだ。

そもそもここにいる人たちと、自分とは、

どういう関係があるのだろう。

乗り合わせた人々の顔を見ながら、ドイツという国に

当たり前に日々を置いている自分が、急にちぐはぐなものに

思えてきた。


昔、高校、大学時代に一貫して習った、

和声の授業の、作曲家の先生がいた。

教わりがいのある先生で、何かにつけ音楽家らしく、

オリジナルの時には過激な見解を授業で取りとめもなく話し、

生徒を混乱に陥れるのが好きな芸術家タイプだったが、

この先生に振り回されながらも、

若い感性に刻み込まれたものはそれぞれ深く、

後々まで残るものだったような気がする。

その先生が最後の授業で言った言葉は、

「全く関係がないと思われる点と点同士を、

線で結んでいくような作業が、これからの世界に出て行く

音楽家の君達には最も必要なことになるだろう」

というものだった。

そのときにはさして意味が分からなかったが、

この世は長く生きれば生きるほど、

ある遠いところにある点と点が急に結び合わされる、

というなことがよく発生するものだと分かった。

時には、比較して対照として結び合うもの同士もあれば、

ハッとするほど似通ったことが関係ないところで起こったり、

ということもある。

まだまだ立ち往生しそうな電車で、

話し相手のいない私は先に挙げた、

若くして日本を代表する作家平野啓一郎氏の

「文明の憂鬱」をもう一度かばんから取り出して開いたのだが、

そこの一節に書かれてあったことを、

そっくりそのまま私の知り合いの音楽家が言っていたのを、

止まったままの車内の喧騒の中で思い出してハッとなった。

平野氏は、何気ないエピソードの中で、余談としてさりげなく、

誕生日というものが、星占いに関するのでなしに、

人間がこの世に生まれたときに初めて目にした光景が、

梅雨時の曇り空であったか、真冬の銀世界であったかで、

その人の一生に微妙な影響を与えるのではないか、

そしてその光景は生涯繰り返し意識され続け得る、

と言っているのであるが、

ちょうど半年ほど前、

一字一句違わずこれと同じ文を、

私はあるドイツ人音楽家の口から聞いたのである。

ちなみに平野氏が6月の梅雨時生まれで、

「お前は6月なんかに生まれたから、頭の中にも

梅雨空が広がっているのだ、とでも言われれば、

なるほどそうかと納得するかもしれない」

と言っているのに対して、

かの音楽家は、「自分はヨーロッパにおける

長い冬の入り口である10月の終わりに生まれて、

それだから霧がかった冷たい、どんよりした

空の下に、よってこういうネガティヴ思考に生まれついたわけだ。

これが太陽の下の、緑あふれる6月にでも生まれてりゃ、

話は違ったかもね」

と笑っていたが、この二人の言ったことは、

このように日本とドイツという四季の気候、特徴の違い

をさらけ出しただけで、後は自分に対するちょっとした

評価まで一緒だったのである。

平野氏という人は、この現代にこういう人が現れたことを

感謝したいぐらい、いにしえの純文学を更に巨大化させたような、

それでいて現代に息づく普通の若者としての飄々とした

新しさも感じさせるような、奇跡に近い人だと思っているが、

その彼がちょっとした見解にせよ、

わざわざ本に書いたということは、これは誰かの受け売りでは

勿論なかったはずである。

音楽家の彼も、さも自分だけがそれを発見したとでも

言いたいような確信を持った荘重なそぶりで私にそれを

告げていた。実際私はそれを聞くまで、「この世ではじめて見た風景が、

一生を左右しないはずがない」

という考えには及んだことがなかったから、

かなりそのときはハッとしたものである。

片や日本の作家、片やヨーロッパ人音楽家、

一見何の関係もない存在が、こうしてパッと一つの

線で結ばれることもある。

いつまでも留まるかと思えた特急が、ゴロッっと動き出し、

皆がおどけて拍手をする中で、

私は「点と点を・・・」

と言った作曲家の先生をも、

この外国の土地で、久方ぶりに思い起こしていた。