人生の目的地はひとつ。そこにたくさんの中継地点を設定できるのが、人生の楽しいところ。 | 【島田佳奈公式ブログ】No love, no life.

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2016年11月にてブログ移転しました。こちらは旧ログです。
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最近なんとなくわかってきたことを、備忘を兼ねてシェアします。

「目標を立ててルートを設定すれば成功する」という成功哲学や「夢を書くだけで引き寄せられる」というスピ的なものが、巷にはたくさんありますよね。

あたしも例にもれず、昔から夢や目標をノートに書き出しワクワクするのは大好きなんですが、これまでずっと、具体的にイメージできる場合とできない場合があったんです。

おそらくそれは、本心では「叶うはずがない」と疑心暗鬼になっている内容だったり、漠然とし過ぎて具体化する(道筋を描く)ことができないものだったりするんですよね。

じゃあそんな内容は掲げるべきでないかといえば、それも違う気がします。
たとえば「人気者になりたい!」なんて夢は、叶うイメージとしてはワクワクするけど、具体化するところまで落とし込む(要は手段を決める)のは難しいでしょ?
むしろ手段をひとつに絞り込めない(そのひとつだけが正しいと信じられない)から、仮に決めても第一歩すら進めなかったり……。

それでは目標を立てる意味がなくなってしまいます。
「間違ってるかもしれないけど、今は盲信して進もう」くらいでないと、何の結果も出せないと思うのです。

最近、歳のせいか「人生の終わり」が以前よりリアルに迫ってる気がしてきたあたしは、ひとつのことに気づきました。
夢や目標の前に「目的地」を設定するほうが先じゃないかって。

大きなところでは、人生の最終地点。
死に方を自分で決めることはできないけど、直前までどう生きるかは決められます。
「寝たきりにならず、前日までアクティブでいる」と目的地を設定すれば、おのずと目標には「いくつになってもできる仕事を持つ」や「老いゆく体を健やかに保つよう健康管理する」や「いつまでもアクティブに動ける体力をキープする」などが浮かび上がります。
むしろ最終地点を軸にすると、金儲けや結婚までも「必須ではない」とすら思えます(笑)

目的地の次に決めるのが目標。これは目的地に辿り着くための交通手段のようなものです。
飛行機で行くのか、車で行くのか、電車で向かうのか、はたまた歩いて行くのか、達する時間によって方法はたくさんあります。
これをひとつに絞る必要はないでしょう。複数のケースを仮定したほうが、バリエーションに富んで面白くなります。

そこまで決めたら、後は細かく落としこむだけ。
「ルートを決める」「時刻表を調べる」「荷造り(支度)をする」に充当するような目標は、年計画や月間計画を立てるようなものです。しかも交通手段(目的地までにかける時間)を複数設定すれば、近道から遠回りまで様々な目標が立てられます。

人生の目的地としては最終地点ひとつになりますが、その間にいくつもの中継地点(仕事や家庭などの最終目的地)を置くことはあなたの自由。すると交通手段(目標)も中継地点に応じて考えるようになります。

たったひとつの最終目的地から、そこへと進む道のりを決めることは、まさに人生そのものをプロデュースする感覚です。
壮大なようで、書き出してしまえば意外とコンパクト。
改めて「人生は退屈するほど長くない」と感じることでしょう。

これまであたしが立ててきた目標は、人生の目的地まで意識しない、ただの小旅行でした。
だから「行かなくても困らない」ものほど叶わなかったのではないかと思いました。
(幸い、大きなところはほとんど叶っています)

目的地や中継地点は、山にたとえるのもわかりやすいイメージです。
富士山クラスの頂上が、人生の最終目的地。
それを登れるようになるまで、もっと低い山にチャレンジしてもいいし、たくさんの山を制覇してから富士山を目指すのでもいい。
(すでにリアルで富士登頂している人は、もっと壮大なエベレストとかをイメージしてくださいね。笑)
存在しない山をイメージしてもいいでしょう。山を下りたり登ったりを繰り返すイメージが快く感じなければ、山脈の端から端までを制覇するつもりで各ポイントを「仕事」や「家庭(結婚)」などに設定してもいいかもしれません。

誰もが「人生」という旅をしています。
だけどそこに目的地がなかったら、途中の進路も不確かなものになるし、迷いも生じやすくなるでしょう。
この旅を楽しくするも退屈させてしまうも自分次第。道中「やっぱ違うかも」と思ったらルートを変えてもいいし、疲れたら休息してもいいのです。

あるひとつの目的地へは、同じ目的地を有する仲間と励まし合いながら進む場合もありますが、最終目的地だけは誰も道連れにはなりません。

誰かが連れてってくれるものではないからこそ、進む道は自身で決めなければなりません。それは同時に「自在に道を決められる」ことでもあります。

目標より上位の目的地をイメージしたら、あたしは邪念や煩悩から生まれた目標(いわゆる物欲系)が「別段(あたしの人生には)なくてもいいもの」になりました。
「どうやって終わりを迎えたいか」を考えることは「どのように生きていくか」と同じということにも気づきました。


あなたにとっての最終目的地は何ですか?
あなたにとっての目標は、そこへと進むルートから逸れていませんか?