今日は関ヶ原の戦いの日・・・の巻26/9/15 | 乾パンのブログ

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私がNHK大河ドラマを録画して見るようになったのは・・・

10年前の「真田丸」からです。

 

それから毎週日曜日の18時にはBS-NHKを必ず見るようにワクワクしたのが

「鎌倉殿の13人」と「光る君へ」ですかねぇ

 

大体のNHK大河ドラマってそんなに面白くはないのですが・・・

今年の「豊臣兄弟!」も正直ちょっとなぁです。

まぁそれでも録画だけはしてます。

 

んで、今週の日曜日は小牧・長久手の戦いを描いた回。

徳川家康・織田信雄連合に苦戦する秀吉汗

それでも信雄を調略して和議を結びます。

 

戦術的に大敗北を喫する秀吉軍ですが、戦略的に何とかして

苦心惨憺に政略的に大勝利するという日本史上においても稀有な出来事となります。

 

 

でさ・・・上矢印この織田信雄の小物感は絶品です。

この役者さんは凄いなぁドキドキ

 

この当時から既にリアルタイムで市井から無能扱いされてた信雄さん。

従来は形式的には信雄が織田宗家の「名代」であり秀吉はその家臣の1人。

しかしこの和睦で秀吉が主君となり信雄は家臣という扱いになる下剋上を遂げます。

屈辱だったろうけどこれが実力がないと生きていけない時代の習わし。

 

その後に様々な追放・改易を経験しつつ江戸時代に近世大名として生き延びます。

もし信雄が飛び切り頭が切れる逸材だったら・・・

父信長、兄信忠、弟信孝のように「不慮の死」を遂げ長生きはできなかったでしょう。

(まぁ信孝をアレした張本人は信雄ですがねあせる

でも信長・秀吉・家康という「三英雄」に仕えて生き延びただけでもエラいんだよな。

 

 

織田信長の子孫で近世大名として明治維新を迎えるのは

信雄系の出羽天童藩2万石・丹後柏原藩2万石の2つの織田家のみ。

明治維新を経て子爵の爵位を得ますから・・・小大名ですね。

それでも織田信長ゆかりの「織田宗家」が近代まで残ったってんがエラいわけです。

 

 

それから池田鉄洋さん演じる丹羽長秀役も良い味出してたなぁベル

これで退場とは残念なりぃあせる

 

長秀は清須会議に参加した宿老でも秀吉と同格だったのに

最初から秀吉に協力する姿勢だった模様。

ある意味、先を見る目があったのかもしれないなぁ

 

 

丹羽長秀の長男の長重は秀吉政権において重用され関ヶ原の戦いでは西軍に与して改易。

その後に大名として復活し、陸奥二本松藩10万石の領主として明治維新を迎えると。

×印の丹羽筋違紋は単純な図柄だけど恰好良いラブラブ

 

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9月15日は「天下分け目の戦い」と称される関ヶ原の戦いが起こった日ですね。

旧暦だと慶長五年九月十五日というわけで、西暦で言うと1600年10月21日の出来事ですか。

当日早朝の関ヶ原は濃霧に包まれ、戦いが始まったのは午前8時だったらしい。

 

関ヶ原の戦いは意外と良質な第1次資料が乏しくて、

現在でも謎が多くて様々な研究が行われ新説が発表されているとのこと。

 

敗れた西軍側の資料がほとんど全て隠滅してしまったのと、

勝った東軍側も幕藩体制の確立と共に都合の良いように事実を改変した文献を残したと・・・

 

小早川秀秋が「寝返った」のはいつかはてなマーク

問鉄砲はあったのかはてなマーク

戦場となった場所の「濃州(濃尾)山中」の山中とははてなマーク

本当に「天下分け目の大いくさ」だったのかはてなマーク

 

実際に戦場を俯瞰する「神の目」を持った人はいないのですから、

体験した人の様々な発言(文献)がそれぞれ矛盾していてもある意味当然。

記憶の混乱ってのもありますからね。

 

 

10年前の愛知県在住時代は岐阜県不破郡関ケ原町に散策に行ったんだよなべーっだ!

今の関ヶ原はなだらかな丘陵の田園地帯で関ヶ原の戦い当時の風景を「夢想」できます。

 

確かこの年の関ヶ原まつりは何らかの理由で行けなかったのですハートブレイク

来年こそは関ヶ原まつりに行こうと目論んでいましたが・・・

よもや愛知県在住は1年のみで翌年には福島県いわき市に異動とは夢にも思わなかった。

 

 

それから驚いたのは関ヶ原って豪雪地帯であること雪

西日本だから温暖で雪は降らないだろう・・・思い込みは間違いであることを実感。

 

太平洋岸を通る「東海道」でも関ヶ原だけ日本海側にむき出しになってるんだよな。

だからこそ近世東海道は鈴鹿峠越えだったんでしょうけどねべーっだ!