現在、限りなくみぞれに近い冷たい雨が降る郡山ですが
昨日は貴重な晴天の1日でした
用事で須賀川市長沼に行ってきましたが
奥羽山系側も8日の雪が残ってますね。
一見雪が少なそうにも見えますが・・・
樹木の下の山道は雪に覆われていると察します
南側の甲子山系は雪で真っ白
連なる那須山系も含めて日本海側の積雪が傾れ込む特異的な気象条件の場所です
甘く見て冬季に登るとヤバい場所ですな
畑の中に長沼南古館なる館跡の標示あり
15世紀中頃~16世紀初頭頃の短い間にここに城郭(平館)があったようです。
室町地代後期(戦国時代初期)ですね
「城跡」って横から見ても何だか分りませんが・・・
上から見たら一目瞭然であります
土塁で囲まれた館(陣地)がクッキリ
写真右側(東側)に虎口がありますから西側に対する防備の堡塁でしょうか
国土地理院の1964年(昭和三十九年)撮影の航空写真を参照させて頂きました。
長沼南古館の他に今では消滅しましたが、
白河街道を挟んで長沼北古館も存在してました。
近世までの白河街道は白河⇔会津を結ぶ重要幹線。
二つの館は西側から長沼市街地や長沼城を守る防御陣地だったんですな
戦国時代初期の長沼城主は国人領主であった長沼氏。
長沼は会津の戦国大名蘆名氏と須賀川の戦国大名二階堂氏の境界線辺りであり、
ココは対会津勢力(蘆名氏)に対する最前線だったわけで。
しかしいろいろと擦った揉んだあって長沼氏は蘆名氏に屈服し
(独立性の強い外様として)蘆名氏家臣団に組み込まれます
16世紀初頭に長沼南古館が廃絶してしまったのは
長沼氏が蘆名氏の家臣となりその必要性が失われたからだと察します
その後の歴史は・・・北側から伊達政宗の南奥侵攻が始まり
蘆名氏も二階堂氏も結束して共同戦線組みますが・・・
強大な伊達政宗勢に敗北して戦国大名として滅亡する運命が待ってます
久し振りに長沼にある歴史民俗資料館に寄り道(有り体に言えば仕事サボり)
長沼は今では須賀川市ですが最近まで岩瀬郡長沼町でした。
入場料はロハ。
私がやって来て場内の電気付けてました
恐らく・・・平日の来場者はヒトケタ代だと思うなぁ
恐らくですが・・・地方公共団体で採用された民俗学(考古学)の学芸員の皆さんって
普段はこのような閉職に勤務して空いた時間で研究論文書いてると勝手に邪推します
角膳や箱膳、手前側に行李の弁当箱。
昭和になってちゃぶ台が普及するまでは御膳で食事するのが普通でしたからね。
今ではちゃぶ台さえも「寺内貫太郎一家」や「巨人の星」や
「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」といった昭和ドラマの中でしか見られません。
唐箕。
私の幼少時代に家の近くの農家の納屋に朽ちた唐箕を見た記憶があります
しかし私が少年時代に過ごした東京都練馬区は
見渡す限りの畑ばかりで田んぼは無かったはずだけど
千歯扱き。
江戸時代に発明された革命的脱穀器
機織り機も展示。
如何にもな民俗学的展示
行灯と石油ランプ。
行灯って0.1ワット程度の明るさとのこと。
明治時代になってから導入された石油ランプの明るさに人々は驚愕したそう
ところで「行」って、呉音で「ぎょう」、漢音で「こう」、唐音で「あん」なんですな
ハリケーンランタンもあり
ホヤ磨きはランプ使ってると必須です
江戸時代における長沼宿場の地図。
白河街道がクランクしまくってますが
現在でもほぼ原型保ってるのが凄い
ある意味、江戸時代から取り残された場所とも言えますがね。